昨年の紅白歌合戦を観ていて、特に印象深かったのはtuki. が歌った「晩餐歌」だった。それはまさに、エモい(感情かリアルに伝わりグッとくる)歌唱であった。
彼女は現在高校一年生だそうだが、ベールに包まれ素顔非公開の(昭和の表現を使うなら)“覆面歌手”のひとりである。13歳から自作曲をネットに投稿し始めたそうだ。このあたり、該当年齢ということではアメリカのビリー・アイリッシュと一緒。
で、日本のボカロの流れの人達だと、アニメーションのなかにこそ存在しようとするだろうが、彼女は少し違う。その手段も活用するが、自分が生身の人間として“存在すること”も、最初からハッキリ示している。その意味ではAdo(さらに前だとamazarashiとか…)と同列の存在と言えそうである。
さて…、彼女への興味はここまでにして、さっそく「晩餐歌」を味わっていくことにしたい。本コラムの主役は、なにしろ歌詞なので…。
彼女は現在高校一年生だそうだが、ベールに包まれ素顔非公開の(昭和の表現を使うなら)“覆面歌手”のひとりである。13歳から自作曲をネットに投稿し始めたそうだ。このあたり、該当年齢ということではアメリカのビリー・アイリッシュと一緒。
で、日本のボカロの流れの人達だと、アニメーションのなかにこそ存在しようとするだろうが、彼女は少し違う。その手段も活用するが、自分が生身の人間として“存在すること”も、最初からハッキリ示している。その意味ではAdo(さらに前だとamazarashiとか…)と同列の存在と言えそうである。
さて…、彼女への興味はここまでにして、さっそく「晩餐歌」を味わっていくことにしたい。本コラムの主役は、なにしろ歌詞なので…。
2023年9月29日配信
そもそも相手はなぜ[泣く]のだろうか
「晩餐歌」の冒頭は[君を泣かすから]。とはいえ別れの歌ではなく、むしろこの愛を深めたいと願っている。そこが新鮮だ。この歌い出しは、実に意外性があっていい。主人公と相手は、扱いに困るくらいの大きな愛情を抱えているようなのだ。その扱いを模索するのが本作のテーマとも言えそうだ。
じゃあ、なぜ相手は[泣く]のかといえば、今はお互いの1ミリの誤差も許せない“孵化する途中の恋愛”を抱えているからかもしれない。一時も離れたくないという感情が成せるものかもしれない。さらに[泣く]は、嬉し泣きの可能性だってある。
[愛の存在証明]という、畏まった表現も出てくる。しかしそれは[曖昧だ]とも言っている。これがミドルティーンの女の子の作品であることを考えると、なんとも彼女のこと、頼もしく感じる人も多いだろう。僕もその一人である。
もちろん歌というのは、想像を膨らませて書くことも可能だ。肝心なのは、結果として、歌詞という言葉として、そこに説得力が在るかどうかなのだ。これだけ評判になっているのだから、そのあたりは既に世間のお墨付きということだろう。
この歌が伝える“フルコース”の“晩餐”とは?
曲のタイトルに改めて注目してみる。“晩餐”とは、いつもより改まった特別な夜の食事のこと。そこで歌詞の中に、タイトル関連のワードを捜す。みっつあった。ひとつは[フルコース]。もうひとつは[違うものも食べたい]。さらに食事・お料理関連では、[スパイス]という言葉もみつかった。
主人公が欲しているのは、ともかく[最高のフルコース]であることは間違いない。この歌に描かれる「愛」が、見事にまるまる成就した状態のことだ。
ちなみに“フルコース”という表現。前菜からデザートまでを具体的に指す狭い使い方もあるが、もっとざっくりと、何らかの対象の“全部すべて”という意味でも使われる。この歌の場合は後者だ。
ただ、そこに辿り着くのは困難だ。そこで登場するのが、“フルコース”と対立関係といえる[違うものも食べたい]だ。その手前には、[人間だから]という言葉も添えられているが、ここは重要なポイント。
「愛」の力があれば、相手とひとつになれるのかといえば、完全な同化など有り得ない。それでも「私」の「私」である部分はしっかり残る。
どんな大恋愛の結果のゴールインであっても、寝室を別にした結婚生活のほうが上手くいく場合がある。つまり私たちは[人間だから]…、なんて例を出すと、この歌にはそぐわないかもしれないが、これが現実というものだ。
さっきの[愛の存在証明]ではないが、このあたりのことを、つまり、愛の困難さを、ある程度理解した上で書かれた作品という気がする。
なお、みっつめの[スパイス]は、[涙のスパイス]という形で登場するが、あくまで“スパイス”は“スパイス”だ。本質と関係ない。僕は早期に、“この歌は悲惨な状況を歌ってるのではない”と判断したが、それはつまり、涙がそんな、軽い扱いでもあったからなのだ。
ヒップホップ的手法といえる言葉の“間合い”が見事
この歌のヤマ場は、力強いファルセットを伴う、サビの部分の熱唱だ。しかもツー・コーラス目では、歌う本人もコントロールを誤りそうなくらいの、更なる“感情の満ち潮”を迎えていく。ボーカリストとしてのポテンシャルは、彼女、なかなかのものだ。
でも、それ以上に僕が凄いと思うのは、その手前のところ。[味気ないんだよね]以下の語尾に“ね”が続いていく辺りだ。言葉のはめ込み方に、特筆すべきものを感じるのである。
[会いたくなんだよね]が、次の行で[君以外会いたくないんだよね]へ発展するが、“なんだ”の残像が頭に残るなか“ないんだ”と畳みかける。その切り返しが快感をもたらす。
次の[なんて勝手だね]の“受け”も効いている。“なんて”が前段の“ないんだよね”の流れをがっしりと受け止める。このあたりの言葉の“間合い”というか“韻”というか“はめ込み具合”の巧みさが、通常のポップ・ソングでありつつも、ラップのフロウ~ライム的な醍醐味を併せ持ったものとして響いている。
この歌を聴いている我々は、そんな緻密なパートを通過するからこそ、[何十回の夜を]以降のサビの熱唱に、より大きな解放感を味わうのだ。
なお、特に具体的に似た部分があるというわけではないのだが、「晩餐歌」を聴いていて、ふと思い出した昭和の名曲があった。布施明がかつて歌った「恋」という作品だ。似た部分はホント、ぜんぜんないのだが、なぜか思い出してしまった。
小貫信昭の名曲!言葉の魔法 Back Number
近況報告 小貫 信昭
(おぬきのぶあき)
みなさま今年もよろしくお願いいたします。世の中にはヘビ年にまつわるさまざまなお話がありますが、僕はヘビが地を這うクネクネを道に例え、一直線のシャカリキではなく、まさに蛇行する余裕もある一年にすべく、ほどほどに仕事をこなしていこうと思っております……と、書きつつ、実は1月が、けっこう忙しかったりもするのですが。最近聴いた音楽では、レイヴェイが昨年の8月にハリウッド・ボウルでロサンゼルス交響楽団と共演したライブに感動しまくっております!
みなさま今年もよろしくお願いいたします。世の中にはヘビ年にまつわるさまざまなお話がありますが、僕はヘビが地を這うクネクネを道に例え、一直線のシャカリキではなく、まさに蛇行する余裕もある一年にすべく、ほどほどに仕事をこなしていこうと思っております……と、書きつつ、実は1月が、けっこう忙しかったりもするのですが。最近聴いた音楽では、レイヴェイが昨年の8月にハリウッド・ボウルでロサンゼルス交響楽団と共演したライブに感動しまくっております!