2006年2月。「I believe」で鮮烈なデビューを果たした絢香。この歌は、彼女自身がこれから進むべき道を照らす一筋のライトのような内容だった。いきなりドラマ主題歌というのも凄いこと。当時、彼女はまだ高校2年生だったのだ。でも、デビュー前からこれほど前評判の高い女の子もいなかった。
その前年。大阪から東京にやってきた彼女は、デビュー前なのにワンマン・ライヴを成功させているのだ。同世代の女の子達からの共感とともに、業界の関係者からも大いに注目されたのだった。
僕もその関係者の一人だったのだが、「ちょっとこの女の子は違うな」と感じたものだ。普通、高校生の女の子というと、少し未完成であっても、それがティーンならではのリアリティとなり、同世代の聴き手に伝わる、というパターンが多い。しかし絢香の場合は違ってた。既にその歌唱は豊かなフレージングとともに完成されていたのだ。
これは洋楽っぽい感覚とも言えた。洋楽アーティストの場合、若さだけが売り物になることはまずない。ある程度の実力を備えてないと、そもそも世の中に出ていけない。
「I believe」も素晴らしかったが、のちにリリースされた「三日月」は、彼女がライヴ・パフォーマンスするたびに評判を上げていった作品で、リリース前からNHKの報道情報番組のテーマ曲となるなど、破格な扱いをされていた。でも、この曲の説得力は、一度聴けば誰にも明快なものだった。世に出た瞬間、スタンダード・ナンバーとなることが約束されていた、といっても過言じゃない。
彼女に取材で会ったのは、「三日月」が正式にリリースされた直後ぐらいだった。彼女の音楽に対する情熱。向上心。そして普段の礼儀正しさ。さらに時折みせるユーモア・センス…。そのどれもが魅力的だった。当時、彼女自身が話していたことを織り交ぜつつ、「三日月」を改めて紹介しよう。
今にも消えそうに細くて、でも凄いパワーを放っている三日月
まずこの作品は、「うっすらとではあったけど、デビューというものも見え始めた時期に書いたもの」だということが重要だ。そこから彼女は想像していったのだ。デビューとなれば「今いる場所からも離れなければいけないのかなって、そう想いながら書き始めた」。
ただ、この曲はタイトルのほうが先に決められた作品だった。高校一年から曲を作ることを始めていた彼女だったが、タイトルから思い浮かぶというのは稀なことだった。「切ないけど強さもある曲が出来上がった。そのイメージは、今にも消えそうで細くて、でも凄いパワーを放っている三日月ともリンクした」。迷うことなく世界観を伝えられるのがこの言葉だった。そもそも彼女自身、数ある月の中でも三日月が一番好きだった。
この曲のタイトル。さらに、先ほど紹介した、デビューとなれば“今いる場所からも離れなければいけない”という想い。それらから歌の中心となるテーマへと、自然に辿り着くことが出来たそうだ。そのテーマとは、「たとえ離ればなれになっても距離が遠くても、同じ空、同じ三日月を通じて想いはつながっている」ということ。最初は地元に住む家族や友だちとの距離を埋めるための曲だった「三日月」は、さらに大きな意味を持つ歌へと育っていく。まさにを見上げるような、そんな彼女のパフォーマンスもお茶の間に届き、「三日月」は自分の歌を聴いてくれる数多くの人達との距離を超える歌へとなる。「たまたま私の歌と出会った方の生活の中に私の歌があって、その方と私はつながっているんだと考えるだけで嬉しくなる」。
電話では埋められない距離を埋めていく
この歌の巧みなところは、まず冒頭で“一本道”の例え、つまり平面、二次元を意識させつつも、頭上に輝く「三日月」の存在から歌の世界観が立体へ、三次元へと広がるあたりだろう。さらに“つながっているからねって”という、歌の歌詞としてはとても口語的な語尾で、あたかも空間を越えて、会いたい相手がすぐ横にいるかのような主人公の想いを描写している点だ。
さらに歌は進み、“どれだけ電話で「好き」と”のあたりも注目だ。携帯電話で友達とつながっているのが子供の頃から当然だった世代の彼女が、電話では埋められない距離に早くも高校生で気づき、このフレーズを書いたのだから。ちなみに、他に特徴的な言葉として“それまでの電池”という表現が出てくるが、これはドラマ『電池が切れるまで』からの影響かもしれない(この歌詞の場合、“電池”=“命”、というほど重たい意味は持たせていないが)。
「三日月」をライヴで聴いた時のゾクゾクする感覚。言葉ではなかなか表わせないけれど、歌っている間の彼女の声に、まさに蒼い月の光のような神々しさを感じたことが、ぼくは何度も何度もある。
その前年。大阪から東京にやってきた彼女は、デビュー前なのにワンマン・ライヴを成功させているのだ。同世代の女の子達からの共感とともに、業界の関係者からも大いに注目されたのだった。
僕もその関係者の一人だったのだが、「ちょっとこの女の子は違うな」と感じたものだ。普通、高校生の女の子というと、少し未完成であっても、それがティーンならではのリアリティとなり、同世代の聴き手に伝わる、というパターンが多い。しかし絢香の場合は違ってた。既にその歌唱は豊かなフレージングとともに完成されていたのだ。
これは洋楽っぽい感覚とも言えた。洋楽アーティストの場合、若さだけが売り物になることはまずない。ある程度の実力を備えてないと、そもそも世の中に出ていけない。
「I believe」も素晴らしかったが、のちにリリースされた「三日月」は、彼女がライヴ・パフォーマンスするたびに評判を上げていった作品で、リリース前からNHKの報道情報番組のテーマ曲となるなど、破格な扱いをされていた。でも、この曲の説得力は、一度聴けば誰にも明快なものだった。世に出た瞬間、スタンダード・ナンバーとなることが約束されていた、といっても過言じゃない。
彼女に取材で会ったのは、「三日月」が正式にリリースされた直後ぐらいだった。彼女の音楽に対する情熱。向上心。そして普段の礼儀正しさ。さらに時折みせるユーモア・センス…。そのどれもが魅力的だった。当時、彼女自身が話していたことを織り交ぜつつ、「三日月」を改めて紹介しよう。
今にも消えそうに細くて、でも凄いパワーを放っている三日月
まずこの作品は、「うっすらとではあったけど、デビューというものも見え始めた時期に書いたもの」だということが重要だ。そこから彼女は想像していったのだ。デビューとなれば「今いる場所からも離れなければいけないのかなって、そう想いながら書き始めた」。
ただ、この曲はタイトルのほうが先に決められた作品だった。高校一年から曲を作ることを始めていた彼女だったが、タイトルから思い浮かぶというのは稀なことだった。「切ないけど強さもある曲が出来上がった。そのイメージは、今にも消えそうで細くて、でも凄いパワーを放っている三日月ともリンクした」。迷うことなく世界観を伝えられるのがこの言葉だった。そもそも彼女自身、数ある月の中でも三日月が一番好きだった。
この曲のタイトル。さらに、先ほど紹介した、デビューとなれば“今いる場所からも離れなければいけない”という想い。それらから歌の中心となるテーマへと、自然に辿り着くことが出来たそうだ。そのテーマとは、「たとえ離ればなれになっても距離が遠くても、同じ空、同じ三日月を通じて想いはつながっている」ということ。最初は地元に住む家族や友だちとの距離を埋めるための曲だった「三日月」は、さらに大きな意味を持つ歌へと育っていく。まさにを見上げるような、そんな彼女のパフォーマンスもお茶の間に届き、「三日月」は自分の歌を聴いてくれる数多くの人達との距離を超える歌へとなる。「たまたま私の歌と出会った方の生活の中に私の歌があって、その方と私はつながっているんだと考えるだけで嬉しくなる」。
電話では埋められない距離を埋めていく
この歌の巧みなところは、まず冒頭で“一本道”の例え、つまり平面、二次元を意識させつつも、頭上に輝く「三日月」の存在から歌の世界観が立体へ、三次元へと広がるあたりだろう。さらに“つながっているからねって”という、歌の歌詞としてはとても口語的な語尾で、あたかも空間を越えて、会いたい相手がすぐ横にいるかのような主人公の想いを描写している点だ。
さらに歌は進み、“どれだけ電話で「好き」と”のあたりも注目だ。携帯電話で友達とつながっているのが子供の頃から当然だった世代の彼女が、電話では埋められない距離に早くも高校生で気づき、このフレーズを書いたのだから。ちなみに、他に特徴的な言葉として“それまでの電池”という表現が出てくるが、これはドラマ『電池が切れるまで』からの影響かもしれない(この歌詞の場合、“電池”=“命”、というほど重たい意味は持たせていないが)。
「三日月」をライヴで聴いた時のゾクゾクする感覚。言葉ではなかなか表わせないけれど、歌っている間の彼女の声に、まさに蒼い月の光のような神々しさを感じたことが、ぼくは何度も何度もある。
小貫信昭の名曲!言葉の魔法 Back Number
プロフィール 小貫 信昭
(おぬきのぶあき)
1957年東京は目黒、柿ノ木坂に生まれる。音楽評論家。
1980年、『ミュージック・マガジン』を皮切りに音楽について文章を書き始め、音楽評論
家として30年のキャリアを持つ。アーティスト関連書籍に小田和正、槇原敬之、
Mr.Childrenなどのものがあり、また、J-POP歌詞を分析した「歌のなかの言葉の魔法」、
自らピアノに挑戦した『45歳、ピアノ・レッスン!-実践レポート僕の「ワルツ・フォー
・デビイ」が弾けるまで』を発表。
1957年東京は目黒、柿ノ木坂に生まれる。音楽評論家。
1980年、『ミュージック・マガジン』を皮切りに音楽について文章を書き始め、音楽評論
家として30年のキャリアを持つ。アーティスト関連書籍に小田和正、槇原敬之、
Mr.Childrenなどのものがあり、また、J-POP歌詞を分析した「歌のなかの言葉の魔法」、
自らピアノに挑戦した『45歳、ピアノ・レッスン!-実践レポート僕の「ワルツ・フォー
・デビイ」が弾けるまで』を発表。