00年以降に生み出された名曲は数多くあるが、なかでも2001年3月にリリースされたバンプ・オブ・チキンの「天体観測」は、今も多くの人達に愛されるスタンダード曲と呼べる存在だろう。彼ら以降に登場したバンドの作品にも、この歌は多大な影響を与えている。なぜこれほど人気が衰えないのだろう。ひとつ言えるのは、成長していくことの希望と不安…、そこに立ちはだかる現実を、ステレオタイプに陥らないリアリティあるものとして描けているからだろう。歌が発表されてかなり年月は経過しているが、この歌の持つ危うさと美しさの絶妙なバランスは、今も色あせない。この歌のサビの“♪見えないモノを見ようとして”というフレーズを超えるモノには、なかなか出会わないのである。
“フミキリ”で“午前二時”に探していた“イマ”
この作品は同名ドラマ『天体観測』の主題歌であり、ドラマの中にはバンプ・オブ・チキンのほかの楽曲も流されていた。そのことで楽曲単体のみならず、アーティストの音楽性を幅広くお茶の間に紹介出来たことは大きかった。でも、なにより「天体観測」という楽曲に揺るがぬ存在感があってこそ、こんな企画も生まれたのだろう。
まずこの歌で特徴的なのは、深夜という時間設定だ。午前二時。俗に「草木も眠る丑三(うしみつ)時」などと呼ばれる時刻である。そして主人公がとった行動は、望遠鏡を担いで踏切(歌詞の中では“フミキリ”という表記)まで出掛けることだった。やがてそこに「君」も加わり、天体観測が始まる。
この歌を聴き始めると、あたかもその時刻、自分もその場所に居るような気分になる。最初に胸を打つのはそんな感覚だ。それをあたかも、歌詞にあるように見えないモノも見えそうで、聞えないものも聞えてきそうな感覚だ。でも、なぜ踏切だったのだろう?現実的な解釈では、そこは辺りが開けていて空が見やすい、ということだろう。でも比喩的なことで言うなら、昼間の喧噪と真逆な場所として選ばれたのかもしれない。線路は目の前に続いているけど決して列車は来ないのだ。そして主人公と「君」が、望遠鏡のファインダーを覗き込み探しているのは不確かな「イマ」だ。
それを具現化するものとして出てくるのが「ほうき星」。ここで聴き手は、自らが二つの「時間」のなかに居ることを知る。午前二時という現実の時間。さらに、望遠鏡のなかの星たちの時間。今、肉眼で見えている光はもしかして何億光年も昔のものかも…、という、天文学のロマン。歌の作者の藤原基央は、そのあたりに造詣が深そうだし、彼は歌を作った時点で[流星=正体は隕石=実態のあるもの]に対して[帚星=氷やガスが成分=実態ないもの]という区別もあったのかもしれない。“見えないモノ”を見ようとするなら帚星だろう、と…。そして、この「イマ」というものを取り巻くように出てくる印象的な言葉があって、“♪幸せの定義”と“♪哀しみの置き場”だ。平易な表現だがよく練られていて、藤原の詞作のセンスを感じさせる。
「天体観測」はラブ・ソング? それとも…。
もしこの歌の粗筋を説明するとしたら、こうなる。「君」に対して主人公は、その“震える手”を握ろうとするが結局は握れず、やがて二人は別々になる。それでも主人公は一人、今も「ほうき星」を追いかける…。諦められず、“♪もう一度会おうとして”同じ時刻に望遠鏡を担いで踏切にやってくるのだ。でもふと気づけば、心の中に確かに「君」は居て、それは以前の変わらぬ二人揃っての「天体観測」に思える…。これがこの歌のシメの部分だ。
もし「君」を異性だと思うなら、この歌はラブ・ソングとして響く。そしてこの男女の距離感は、「夜空ノムコウ」という歌にも似た感覚に思える。そう受け取って聴いている人にとって、もちろんそれが正解だろう。一方で、この歌のテーマは成長であり、「君」というのは自分のなかのもうひとりの「自分」なのだと仮定して聴くことも出来そうだ。なぜ「君」の手が震えているかといえば、立ちはだかる現実に押しつぶされそうだからであって、つまり「君」とは自分の“イノセントな部分”。でも主人公は、生きてく上での矛盾も飲み込んで先へ進み、「君」はいつしか自分のなかから居なくなる。しかしそれも錯覚で、実は何も変わっていないんだというのが歌のシメだと思って聴くことも出来る。
ただ、この歌には重要な伏線があることを忘れていた。歌の冒頭の“♪ベルトに結んだラジオ”が告げている天気予報だ。その予報は晴れなのに、結局主人公と「君」は“♪予報外れの雨”に打たれるのだ。望遠鏡を覗いて“♪見えないモノを見ようとして”いたはずが、こんな足下の現実すら、“他人の意見=ラジオの天気予報”を信じてしまったが為に予想できなかったわけだ。この部分だけ強調して受け止めると、「天体観測」とはそんな人生訓を含んだ歌、ということになる。どこに終点距離を合わすかで様々に聞えるのがこの歌の素敵なところだ。
で、まずは貴方にとっての“望遠鏡”を覗いてみるのはどうだろう。それをしなければ、何も始まらないのだから…。
“フミキリ”で“午前二時”に探していた“イマ”
この作品は同名ドラマ『天体観測』の主題歌であり、ドラマの中にはバンプ・オブ・チキンのほかの楽曲も流されていた。そのことで楽曲単体のみならず、アーティストの音楽性を幅広くお茶の間に紹介出来たことは大きかった。でも、なにより「天体観測」という楽曲に揺るがぬ存在感があってこそ、こんな企画も生まれたのだろう。
まずこの歌で特徴的なのは、深夜という時間設定だ。午前二時。俗に「草木も眠る丑三(うしみつ)時」などと呼ばれる時刻である。そして主人公がとった行動は、望遠鏡を担いで踏切(歌詞の中では“フミキリ”という表記)まで出掛けることだった。やがてそこに「君」も加わり、天体観測が始まる。
この歌を聴き始めると、あたかもその時刻、自分もその場所に居るような気分になる。最初に胸を打つのはそんな感覚だ。それをあたかも、歌詞にあるように見えないモノも見えそうで、聞えないものも聞えてきそうな感覚だ。でも、なぜ踏切だったのだろう?現実的な解釈では、そこは辺りが開けていて空が見やすい、ということだろう。でも比喩的なことで言うなら、昼間の喧噪と真逆な場所として選ばれたのかもしれない。線路は目の前に続いているけど決して列車は来ないのだ。そして主人公と「君」が、望遠鏡のファインダーを覗き込み探しているのは不確かな「イマ」だ。
それを具現化するものとして出てくるのが「ほうき星」。ここで聴き手は、自らが二つの「時間」のなかに居ることを知る。午前二時という現実の時間。さらに、望遠鏡のなかの星たちの時間。今、肉眼で見えている光はもしかして何億光年も昔のものかも…、という、天文学のロマン。歌の作者の藤原基央は、そのあたりに造詣が深そうだし、彼は歌を作った時点で[流星=正体は隕石=実態のあるもの]に対して[帚星=氷やガスが成分=実態ないもの]という区別もあったのかもしれない。“見えないモノ”を見ようとするなら帚星だろう、と…。そして、この「イマ」というものを取り巻くように出てくる印象的な言葉があって、“♪幸せの定義”と“♪哀しみの置き場”だ。平易な表現だがよく練られていて、藤原の詞作のセンスを感じさせる。
「天体観測」はラブ・ソング? それとも…。
もしこの歌の粗筋を説明するとしたら、こうなる。「君」に対して主人公は、その“震える手”を握ろうとするが結局は握れず、やがて二人は別々になる。それでも主人公は一人、今も「ほうき星」を追いかける…。諦められず、“♪もう一度会おうとして”同じ時刻に望遠鏡を担いで踏切にやってくるのだ。でもふと気づけば、心の中に確かに「君」は居て、それは以前の変わらぬ二人揃っての「天体観測」に思える…。これがこの歌のシメの部分だ。
もし「君」を異性だと思うなら、この歌はラブ・ソングとして響く。そしてこの男女の距離感は、「夜空ノムコウ」という歌にも似た感覚に思える。そう受け取って聴いている人にとって、もちろんそれが正解だろう。一方で、この歌のテーマは成長であり、「君」というのは自分のなかのもうひとりの「自分」なのだと仮定して聴くことも出来そうだ。なぜ「君」の手が震えているかといえば、立ちはだかる現実に押しつぶされそうだからであって、つまり「君」とは自分の“イノセントな部分”。でも主人公は、生きてく上での矛盾も飲み込んで先へ進み、「君」はいつしか自分のなかから居なくなる。しかしそれも錯覚で、実は何も変わっていないんだというのが歌のシメだと思って聴くことも出来る。
ただ、この歌には重要な伏線があることを忘れていた。歌の冒頭の“♪ベルトに結んだラジオ”が告げている天気予報だ。その予報は晴れなのに、結局主人公と「君」は“♪予報外れの雨”に打たれるのだ。望遠鏡を覗いて“♪見えないモノを見ようとして”いたはずが、こんな足下の現実すら、“他人の意見=ラジオの天気予報”を信じてしまったが為に予想できなかったわけだ。この部分だけ強調して受け止めると、「天体観測」とはそんな人生訓を含んだ歌、ということになる。どこに終点距離を合わすかで様々に聞えるのがこの歌の素敵なところだ。
で、まずは貴方にとっての“望遠鏡”を覗いてみるのはどうだろう。それをしなければ、何も始まらないのだから…。
小貫信昭の名曲!言葉の魔法 Back Number
プロフィール 小貫 信昭
(おぬきのぶあき)
音楽評論家なる職業に就いて早ウン十年。でも新しい才能と巡り会えば、僕の感性は日々更
新され続けるのです。さて近況としては、前々から心にグサリとくる歌詞で注目していた黒
木渚さんのワンマン・ライヴを見てきました。同名のバンドで活躍していた彼女は現在ソロ。
腕利きミュージシャン達と、幅広く奥行きある世界観を追求しています。ビックリしたのは
歌唱力。歌詞のヒトだと思っていたんですが、その認識が一気に改まりました。さらに僕が
ずっと追い続けている小田和正さんのニュー・アルバム『小田日和』がついに完成したとい
う嬉しいニュースが飛び込んできました!7月3日のリリースに向け、どこかで僕の書いた
原稿もお読み頂けるハズ。今月末からのツアーも楽しみです。
音楽評論家なる職業に就いて早ウン十年。でも新しい才能と巡り会えば、僕の感性は日々更
新され続けるのです。さて近況としては、前々から心にグサリとくる歌詞で注目していた黒
木渚さんのワンマン・ライヴを見てきました。同名のバンドで活躍していた彼女は現在ソロ。
腕利きミュージシャン達と、幅広く奥行きある世界観を追求しています。ビックリしたのは
歌唱力。歌詞のヒトだと思っていたんですが、その認識が一気に改まりました。さらに僕が
ずっと追い続けている小田和正さんのニュー・アルバム『小田日和』がついに完成したとい
う嬉しいニュースが飛び込んできました!7月3日のリリースに向け、どこかで僕の書いた
原稿もお読み頂けるハズ。今月末からのツアーも楽しみです。