椎名林檎さんとはごく短く、コンサート後の楽屋で挨拶程度に言葉を交わしただけなのだが、知的で礼儀正しい人、という印象だった。でも、彼女のことを初めて知った時は、「随分大胆なヒトが現われたゾ」と驚いたものだ。それはセカンド・シングル「歌舞伎町の女王」だった。歓楽街のアブノーマルな世界に生きる“女王”は、実は主人公の母親であり、やがて自分がその跡目を継ぐ決心をするという、そんな内容。アバンギャルドのようで歌謡曲的な聞きやすさも備えていた。ほかのどの曲よりも“劇的”であることが、素晴らしかった。
ホップ・ジャンプ・ジャンプ・ジャンプ!
しかし椎名林檎は“新宿”での成功に甘えることなく、次のシングル「ここでキスして。」を発表する。恋愛が思うように成就しないティーンの心情を描いている歌なので、青春モノといえば青春モノ。実際、彼女が十代の頃に着想した作品だ。最初は淡い恋心だったであろうものが、胸の奥で発酵し、やがて情念の焔(ほのお)すらユラメく極限の手前であることがヒリヒリ聴き手に伝わる。“さめざめ”といった副詞が効果的に使われていたりという歌詞センスも、さすがだった。
そしていよいよ、今回メインで取り上げる「本能」を、1999年の10月にリリースする。このニュースを知った時、実はタイトルだけで感動した。こんな大きなテーマで歌を書く勇気に拍手を送った。デビュー曲「幸福論」からここまでは、凄い勢いを生んだ。鋭い映像感覚のPVも手伝って、それまでの女性アーティストの常識を変えたのだ。いわばホップ・ジャンプ・ジャンプ・ジャ〜ンプ、という感じだった。もっとも、ご本人はこの当時、周囲のあまりの過熱ぶりに、怖さすら覚える日々であったそうだが…。
ところで、彼女は最初から“本能”をテーマに歌を書こうとしたのだろうか? でもこんな推測をした。普通に考えれば歌詞より曲が先だろう。そして、類い希なサウンドを手に入れた彼女は、“これぞ本能の赴くままの、何にも束縛されてない演奏”だと気づき、では「本能」というタイトルで歌詞を書いてみようと、そう思ったかもしれない。いやこれ、繰り返すが、あくまでまったくの推測なのだけど…。
「本能」のままに書くこと
ではさっそく「本能」の歌詞を見ていくが、ひとつお断りしておく。この歌のボーカル・トラックは程良く歪ませたものになっていて、コトバの聞き取りやすさを優先してはいない。そこだけを切り離さず、全体をサウンドとして受け取って欲しいというアーティストの意思も感じる。ただ、だからこそそこを通り抜け聴き手の耳に着地したコトバはより強いインパクトを生む。
いきなり冒頭から鋭いフレーズが炸裂する。 冒頭の三行だ。“もう充分”までのあたり。ここはとても重要だ。読み解き方によっては、大胆なコトバ不要論とも受け取れなくもないからである。歌のテーマが「本能」である以上、どうやらコトバというのは反対陣営のもの、つまり「理性」が司る領域、ということで、“もう充分”と言っているのかも……、しかし歌はここでプツンと途切れるわけじゃなく、さらに続いていく。
“淋しいのはお互い様”以下は、この“お互い”というのが誰と誰の関係なのかといった説明もなく、いきなり出てくるものだから、聴き手は半歩遅れで感情移入の準備をしつつ彼女について行くことになる。でもそれが快感。さらに性愛をイメージさせるフレーズなども出てくるが、これは彼女のなかの奔放な連想ゲームが機能してこそ可能なことだろう。彼女がこの歌でやりたかったのは「本能」をテーマに書くことじゃなく、「本能」のままに書くこと、だったのかもしれない。
少しだけ、ここは直接的な表現かなぁと思われるのは、カテゴライズとかは“忘れてみましょう”のあたり。アーティストや音楽を、カテゴライズしたがる人達って、ほんと、多いもの。そして最後に、僕がこの歌でもっとも注目したいコトバを。それは“虚の真実を押し通し”のあたり。まだまだデビューして日も浅かった椎名林檎は、生身の自分とパブリックなイメージのなかの自分にギャップを感じていたはず(これはアーティストなら誰もが経験すること)。“虚の真実を押し通し”というのは、そこへの態度表明でもあったろう。
ホップ・ジャンプ・ジャンプ・ジャンプ!
しかし椎名林檎は“新宿”での成功に甘えることなく、次のシングル「ここでキスして。」を発表する。恋愛が思うように成就しないティーンの心情を描いている歌なので、青春モノといえば青春モノ。実際、彼女が十代の頃に着想した作品だ。最初は淡い恋心だったであろうものが、胸の奥で発酵し、やがて情念の焔(ほのお)すらユラメく極限の手前であることがヒリヒリ聴き手に伝わる。“さめざめ”といった副詞が効果的に使われていたりという歌詞センスも、さすがだった。
そしていよいよ、今回メインで取り上げる「本能」を、1999年の10月にリリースする。このニュースを知った時、実はタイトルだけで感動した。こんな大きなテーマで歌を書く勇気に拍手を送った。デビュー曲「幸福論」からここまでは、凄い勢いを生んだ。鋭い映像感覚のPVも手伝って、それまでの女性アーティストの常識を変えたのだ。いわばホップ・ジャンプ・ジャンプ・ジャ〜ンプ、という感じだった。もっとも、ご本人はこの当時、周囲のあまりの過熱ぶりに、怖さすら覚える日々であったそうだが…。
ところで、彼女は最初から“本能”をテーマに歌を書こうとしたのだろうか? でもこんな推測をした。普通に考えれば歌詞より曲が先だろう。そして、類い希なサウンドを手に入れた彼女は、“これぞ本能の赴くままの、何にも束縛されてない演奏”だと気づき、では「本能」というタイトルで歌詞を書いてみようと、そう思ったかもしれない。いやこれ、繰り返すが、あくまでまったくの推測なのだけど…。
「本能」のままに書くこと
ではさっそく「本能」の歌詞を見ていくが、ひとつお断りしておく。この歌のボーカル・トラックは程良く歪ませたものになっていて、コトバの聞き取りやすさを優先してはいない。そこだけを切り離さず、全体をサウンドとして受け取って欲しいというアーティストの意思も感じる。ただ、だからこそそこを通り抜け聴き手の耳に着地したコトバはより強いインパクトを生む。
いきなり冒頭から鋭いフレーズが炸裂する。 冒頭の三行だ。“もう充分”までのあたり。ここはとても重要だ。読み解き方によっては、大胆なコトバ不要論とも受け取れなくもないからである。歌のテーマが「本能」である以上、どうやらコトバというのは反対陣営のもの、つまり「理性」が司る領域、ということで、“もう充分”と言っているのかも……、しかし歌はここでプツンと途切れるわけじゃなく、さらに続いていく。
“淋しいのはお互い様”以下は、この“お互い”というのが誰と誰の関係なのかといった説明もなく、いきなり出てくるものだから、聴き手は半歩遅れで感情移入の準備をしつつ彼女について行くことになる。でもそれが快感。さらに性愛をイメージさせるフレーズなども出てくるが、これは彼女のなかの奔放な連想ゲームが機能してこそ可能なことだろう。彼女がこの歌でやりたかったのは「本能」をテーマに書くことじゃなく、「本能」のままに書くこと、だったのかもしれない。
少しだけ、ここは直接的な表現かなぁと思われるのは、カテゴライズとかは“忘れてみましょう”のあたり。アーティストや音楽を、カテゴライズしたがる人達って、ほんと、多いもの。そして最後に、僕がこの歌でもっとも注目したいコトバを。それは“虚の真実を押し通し”のあたり。まだまだデビューして日も浅かった椎名林檎は、生身の自分とパブリックなイメージのなかの自分にギャップを感じていたはず(これはアーティストなら誰もが経験すること)。“虚の真実を押し通し”というのは、そこへの態度表明でもあったろう。
小貫信昭の名曲!言葉の魔法 Back Number
プロフィール 小貫 信昭
(おぬきのぶあき)
文章を書くことと歌が大好きだったこともあって、音楽を紹介する職業に就いて早ウン十年。
でも新しい才能と巡り会えば、己の感性は日々、更新され続けるのです。
「エルダー・フラワー・コーディアル」の炭酸割りが、この夏は大活躍でした。
エルダー・フラワーというハーブから作られたシロップ(コーディアルはその意味)で、
ライムやレモンとも違う、独特の清涼感ある香りがクセになります。
ちなみにノン・アルコール。確か槇原敬之が、この飲み物を題材に一曲書いてたと思いますが…。
文章を書くことと歌が大好きだったこともあって、音楽を紹介する職業に就いて早ウン十年。
でも新しい才能と巡り会えば、己の感性は日々、更新され続けるのです。
「エルダー・フラワー・コーディアル」の炭酸割りが、この夏は大活躍でした。
エルダー・フラワーというハーブから作られたシロップ(コーディアルはその意味)で、
ライムやレモンとも違う、独特の清涼感ある香りがクセになります。
ちなみにノン・アルコール。確か槇原敬之が、この飲み物を題材に一曲書いてたと思いますが…。