第87回 RADWIMPS「愛にできることはまだあるかい」
photo_01です。 2019年7月19日発売
 今月は、映画『天気の子』の主題歌のひとつ、RADWIMPSの「愛にできることはまだあるかい」を取り上げよう。映画監督・新海誠とのコラボは『君の名は。』以来だが、両者の場合、単にアーティストが楽曲提供するにとどまらず、脚本段階から“共作”することで知られる。

たとえばこの歌において、愛は広義なようで狭義でもある。この楽曲タイトルを知った時、我々は愛というコトバに地球、いや宇宙を包み込むほどの広さを感じるだろう。しかし歌詞を詳細に眺めれば、[君と分けあった愛][君とじゃなきゃ]という表現に出くわす。男女のなかで、愛が生まれたその場所を、ちゃんと示してもいる。このあたり、楽曲と映画は一心同体で、歌がストーリーの、重要な一部を担っているということだろう。

しかし、ここでひとつお断りを。当コラムとしては、映画のことはいったん切り離し、「愛にできることはまだあるかい」を、単体のJ-POPとして扱わせて頂く。そのスタンスで、歌詞の世界観を受け止めようと思うのだ(けして映画を無視しようというわけではありません。コラムの性格上、そうさせて頂くわけなのです)

愛の歌と、愛を考察する歌の違い

 あのヒトが愛しい、あのヒトが好きだ…。これらの感情は、昔から歌の大きなテーマとなり、数々の名作を生んできた。でも、愛そのものを客観的にみて、表現に活かし、多くの人々を魅了した例となると、ビートルズの「愛こそはすべて」(1967年7月)が最初かもしれない。あの頃は、若者達の間に“ラブ&ピース”の考え方が浸透していた時代でもあった。

ひとつ注意すべきは、愛という言葉自体、甚だ抽象的な点だ。また、歌のなかで鮮度を保つことも難しい。実際、ビートルズ以降の世の中は、“愛こそはすべて”と言うだけでは解決出来ない困難に苛まれる(こそに反応してのことか、オフコースはアルバム『ワインの匂い』(1975年)の中の「幻想」で、[愛がすべてじゃないにしても]とビートルズに対し“返歌”している)。

あれから数十年…。RADWIMPSの「愛にできることはまだあるかい」は、どこかの地下水脈で、ビートルズと繋がりあっている気もするのだが、どうだろうか? 大上段から愛という言葉を用いて、それでいて確かに、歌のリアリティを勝ち取っているあたり、似てなくもないと思うのだが…。

なぜここにきて、愛というコトバがリアルなのだろう? それはきっと、世の中に不足しているからだ。頭で理解しつつも、資本主義の現実として最善策がみつからない環境破壊。そして、世界に広がる自国第一主義。答が見出せぬことへの最終的な解答は、どんな世の中においても愛。再び愛の出番ということだ。

その際、RADWIMPSはコトバを慎重に扱っている。愛は使い古され、擦り切れてもいることを、知っていたのだ。だからこそ、「愛にできることはまだあるかい」と、“まだ”というコトバを添えたのだろう。歌う野田洋次郎の声の感覚もイイ。相手に訊ねるようでいて、自分に言い聞かすようでもある。特定の色に染まらない、それでいて力強い歌声だ。

日常会話のなかで応用できる歌詞

 この歌はすでに、我々の日常会話のなかで二次創作的に活用されつつある。ここからはぐっとユルい感じになるが、それは具体的には、[僕にできることはまだあるかい]の応用である。“~かい”と、語りかけるような調子なのもあり、ついつい真似したくなるのだ。

私の知るヒトは、愛する人に、このフレーズをそのまま流用し、“出来ることはまだあるかい?”と語りかけた。おそらく彼が期待していた返答は、「何もしなくていいの。ただ、貴方がそこに居てくれれば」みたいなことだったろう。

しかし現実は甘くない。その時、具体的に近所のお使いを頼まれたというのだ。つまりそれが、愛する人が思った、彼に“できること”だったわけだ。このほろ苦いエピソードが私達(特に男性)に教えてくれるのは、「愛にできることはまだあるかい」を日常会話で活用する際は、注意と覚悟が必要だということだ。
小貫信昭の名曲!言葉の魔法 Back Number
プロフィール 小貫 信昭  (おぬきのぶあき)

仕事場に溜まりに溜まった不要な本を処分しようと検索したら、今は買取業者が多数存在することを知った。しかも一冊一冊、丁寧に査定してくれるところも珍しくなく、また、数をまとめると送料も無料である。ひとつだけ誤算があった。ダンボールなんて近所のホームセンターで安価に手に入るだろうし、自分で用意しようと思い買いに行くと、今や資源が高騰しているのか、けっこう高価だったことだ。僕はおもわず“彼”を呼び捨てにすることをやめて、ダンボールさん、と、さんヅケにしたのだった。