第92回 山下達郎「ずっと一緒さ」
photo_01です。 2008年3月12日発売
 さて今回は、山下達郎の「ずっと一緒さ」をとりあげる。この方には以前、何度かインタビューさせて頂いたことがあるが、毎回とても丁寧に対応してくださったことを覚えてる。そうした場において、いわゆるプロモーション・トークが完璧なタイプであり、こちらが発しそうな質問に対しては、予め頭の中に最良の答を用意してくれていた。

だから逆に、ご本人が想定外の質問も投げかけたくもなるのだ。けっこう前の話だが、彼が『JOY』というライブ・アルバムをリリースした時のこと。「達郎さん、これはいったい会場のどのへんの席で聴いてることを想定したライブ音源なんでしょう?」。そんな質問をすると、笑顔で「ヘンなこと訊くなぁ~」と返してくれた。この場合の“ヘン”は、質問者を評価してのことと受け取り、僕はシメシメと思ったものだった。

特徴あるメロディが呼び込む簡素な言葉

 今回、「ずっと一緒さ」の歌詞全体を眺めてみて、すぐに気づいたことがある。昨今のJ-POPの歌にくらべ、言葉数が少ない。

このことに関して、『POCKET MUSIC』リリース時に本人に訊ねたことがあった。答はこうだった。「ボクの曲ってメロディの音数が少ないんですよ。4小節に7つしか音符がないことも、平気であるしね。だから(そんなメロディに)歌詞を乗っけていくと、言いたいことの半分も言わないうちに曲が終わっちゃうこともある。かといって、昔のフォークみたいな字あまりソングは絶対に許せない」(雑誌FM STATION」1986年4月21日号)。

もちろん、だからこそ厳選・吟味し、言葉が少なくても意図が伝わる歌を作っているのだろう。 

[夢の中まで]一緒なら、それは磐石の愛である

 「ずっと一緒さ」は、愛する人への未来永劫変わらぬ想いを歌いあげたバラードである。なので「友人の結婚式で歌ったよ」というヒトもいるかもしれないが、それはそのヒトが歌唱力に自信がある場合に限られるだろう。

ラブ・ソングにおいて、一途な想いを表現する時、決まって顔を出すのは想いの強さを託すための“誇張した表現”である。この歌なら、[昼も夜も]にとどまらず、[夢の中まで][ずっと 一緒さ]の辺りだろう。

寝言で他の異性の名前を言ってしまい、配偶者と険悪な状況に陥ったという話は今も定番ネタとして健在だが、この場合、なにしろ[夢の中まで]一緒なのである。この愛は、まさに磐石である。

“愛は〇〇〇”と例えた時、作詞センスが試される

 しかしこの磐石な愛も、一朝一夕に主人公のもとへ舞い降りたわけじゃなかった。歌の中盤に、それを示す部分が出てくる。ここで愛を、何か別のものに例えるのだが、この場合、それは[不思議なジグゾー]だ。そう。ジグゾー・パズルだ。この愛を育む間には、迷いやすれ違いもあったであろうことが、この比喩から窺い知ることができる。

エンディングはとても印象的である。[ずっと]を三度繰り返しての[一緒さ]。そのあと、[ずっと]を二度繰り返しての[一緒さ]。さらに最後。トドメに[ずっと]を一度だけ歌ってからの、この流れのなかで一番声が崇高な響きの[一緒さ]。言葉は同じでも、歌いかける山下達郎は、ニュアンスに変化をつけている。

ポップスという数分間の時間芸術において、ここでは敢えて、[ずっと]という言葉を物量で攻めているとも言える構成だ。この贅沢な時間の使い方で、文字通り、二人はず~~~~~~~~~~っと一緒なんだということを、リアルに伝えようとしている。

ここで急に芸能レポーターっぽくなるが、山下達郎がずっと[一緒さ]なのは、もちろん竹内まりやだろう。もしかしてこの歌は、普段、照れて言えないことだからこそ歌にした、みたいな、私的な動機から生まれたのかもしれない……、なんてことを書くと、何を言っているんだ、この歌はフジの月9ドラマ、香取慎吾主演『薔薇のない花屋』の主題歌として制作されたんじゃないか、と、達郎ファンからお叱りを受けるかもしれない。そういや香取慎吾は、あのドラマで自分の娘役・雫を演じた八木優希と、久しぶりに再会したそうだ。あのドラマ、観てたけど、すごく良かったなぁ。
小貫信昭の名曲!言葉の魔法 Back Number
プロフィール 小貫 信昭  (おぬきのぶあき)

スティーブン・ピンカーの『21世紀の啓蒙』(上・下巻)を頑張って読んだ。トランプさん登場以降のナンダカナァ~って空気感に対して、徹底的なデータ主義で希望の光を与えてくれる書。最初にエントロピーのことが出てくるあたりは読みにくかったけど、あとはスイスイ最後まで…。勉強になった、というか、モノの見方の偏りが是正された。ところでピンカーは、『良い文章とは』という本も出しているらしい。しかし未訳なのだ(涙)。それ、早く出して欲しい(笑)。