今回取り上げるのは、今、最も注目されているバンド、RADWIMPSの「有心論」。彼らの代表曲のひとつだ。作詞作曲はボーカルの野田洋次郎。いっけん、戦前の保守政治家にでもいそうな名前だが、てんぺんからつま先まで、革新的な作風に満ち溢れた男である。他にも多数、名作や快作があるが、今回は「有心論」に絞る。
野田の書く歌詞は、しばしば思想的であり哲学的だと評される(さらに時間の概念ということでは、時にSF的だったりもする)。でも、そもそも哲学とはなんだろう。自然の力や神様といった大きなものを崇めるのではなく、人間が自分の力で人間のことを考え始めたことで生まれたのがこの学問だ。その意味では大なり小なり、すべてのJ-POPは“哲学的”と言えなくもない。
それなのに野田の書くものに特にそんな印象が強いのは、彼独特の言葉遣いが、しばしば哲学用語を連想させるからだろう。「有心論」は、まさにタイトルからしてそのひとつとみなされている(なかには「ソクラティックラブ」という、ソクラテスやアルキメデスなどが関係してそうな歌もあり、さらに「記号として」も、この“記号”がソシュールなどの言語学に関係あるなら充分に思想的と言えるだろう)。
「有神論」の反対は、普通なら「無神論」だけど…。
さてさっそく「有心論」の歌詞をみてみよう。でも、彼の造語とおぼしきこの曲タイトルだけで、ご飯が三杯食べられそうだ(こう書いておいて、彼らの「いいんですか?」という歌を思い出す。あっちは“お前”が“おかず”ならご飯を50杯おかわり出来るというんだから、僕よりかなり上手だ!)。
さてこの言葉、普通に連想するなら“有神論”の真ん中の“神”を同音の“心”に置き換えたものと推測出来る。つまりは“有神論”からの派生語ということ。そして“神の存在を信じる”ことが元の言葉だったら、“心の存在を信じる”、という意味になる。
ただ、派生語と書いたけど、もしかしたらこれも反対語かもしれない。“心の存在を信じる”という行為を、神の代わりに心を信じると解釈するなら、“無神論”に近い意味になる。ちなみに野田の他の作品で、これらに関連すると思しきものを探してみると、「狭心症」の中では“主よ”と呼び掛ける場面がある。ここでは寧ろ、彼はれっきとした“有神論者”と推測出来る。
「嘘」と「ホント」「嫌い」と「好き」について
やっとタイトルを越えて、歌詞の冒頭へ辿り着く。で、いきなり印象的なフレーズに出くわす。「嘘」と「ホント」、「嫌い」と「好き」を天秤にかけるかのような表現があって、しかし結果は目盛りに目を凝らさずとも本人には分かってしまっている。ペシミスティックな空気が覆う。こうして原稿を書いていても、気が滅入る。でも…。「嘘」と「ホント」、「嫌い」と「好き」というのは、テキトーに並べた二項対立というわけではない。前者のふたつは社会と接している外側の自分、“仮面”を被った自分の状態のことで、後者はまさに、内心思っていることだ。どっちかひとつでも好結果なら、まだ救われるのだけど…、ダメだこりゃ。
その次の“どうせいつかは”では、それまで心理状態の描写だったことから一転、時間に対する概念が主となる…、というか、いずれ「結果」として訪れる「近未来」に対しての先回り(正確には現時点での決断で、なんとか時間の“巻き戻し”を図る)に奔走する。でもその姿はもがき苦しんでいるように見える。
恋愛の敗者となる兆しがある人間に、有り難くないけど宿ってしまう「予知能力」のようなものは、これまでのラブ・ソングの歌詞に影響を与えてきた(“片想いソング”とか、その活用が顕著)が、この場合、実に実にリアルだ。そんな健気ともいえる主人公に対して、聴き手である我々は、とっても切ない気持ちになる。この切なさは、もちろんこの歌に対する感動だ。
“人間〇〇〇”攻撃により、せき立てられる
さて、さらに歌は進んでいくのだが、このあと“人間不信者”と“人間信者”という言葉が対になって出てくる。さらに“人間洗浄機”なる未来のマシンのようなものも登場させているのだ。このあたりの“人間〇〇〇”攻撃は、なんかカクカクした語感も手伝って、聴いてて心がせき立てられる。 ただ、この“洗浄機”に対しては、ちゃんと伏線が敷かれているようだ。それは、ここに至る少し前の「君」とのやりとり。“綺麗に泣く”“横で笑った”“つられて笑う”“泣く 泣く”だ。これは明らかに、精神がそのことで浄化されていく模様を実況中継した部分。そしてそのあと、“洗浄機”の登場となるわけである。非常にスペクタクルな伏線の回収だったわけだ。お見事!
なんだか知らないけど、このあたりは聴いていて、切なさを越え、さっきの“浄化”じゃないけど、気持ちいい、清々しい気分にもなる。この清々しさは、もちろんこの歌に対する感動だ。
お待たせ。いちばん有名なフレーズです。
さて“人間洗浄機”だが、一部の研究所のものではなく、民生用も開発されたようだ。庶民にも手が届くものとなったようで、そのあと、テレビ・ショッピングのような売り文句の呼び込みもなされ、さらにどうなるのかと思うと、な、なんと「有心論」に、“神様”という言葉が初めて登場する。しかしそれは“君のクローン”、しかししかしそれは要するに“人間洗浄機”のことを指しているとも受け取れなくはない。ただ、よく聴けば、“人間洗浄機”も“君のクローン”も、歌詞の中に“成功した時にでも”とあるように、未だ想像の中の産物なのだろう。ここらあたりから非常に混乱してくるけど、絶望の淵にあった人間が、どこかで一筋の光を見つけていくというか、なにか啓示のようなものを受けたような雰囲気も、少しづつ醸し出されていく。その際、最も重要なフレーズは、“息を止めると心があった”という、この印象的な表現だろう。
野田洋次郎の歌詞は“哲学的”ということを、改めてここで思い出すなら、あの『死に至る病』のキルケゴールである。この人は、人間、絶望の淵にあっても、僅かな可能性を信じれば「神」の存在を感じることが出来るんだと説いた。これをそのまま「有心論」にあてはめるなら、“左心房に君がいる”という、ここがその可能性に相当する、というこの歌の聴き方も出来る。
“自殺志望者”を“永久幸福論者”に変える、という、最後のほうに出てくるこのフレーズには、これまでも多くの人達が救われてきただろう。途中、どっぷりペシミスティックな気分に苛まれたけど、最後まで聴いて良かったと思えた瞬間だ。
と、ここでは終われない。「あのフレーズについて語ってないではないか?」。読者の方からそんなツッコミがありそうだ。そう。“端っこで泣かないよう”に君は“地球を丸くした”という、この非常に有名なフレーズである。こんなイメージが頭の中を占領していた時の主人公は、おそらく“Google マップ・超・俯瞰状態”だったのではと思う。失恋の痛手により己の肉体が質量を失い、魂が上昇し、自分が居る小さな部屋がグワーッと俯瞰され、そこに丸い地球が現れたのだ。
ただ、昭和歌謡にも詳しい僕は、確かにここの部分、紛れもない傑作キラー・フレーズだけど、凄く驚いたわけじゃない。フォー・リーブスの「地球はひとつ」という歌を知ってるからなのだ。
野田の書く歌詞は、しばしば思想的であり哲学的だと評される(さらに時間の概念ということでは、時にSF的だったりもする)。でも、そもそも哲学とはなんだろう。自然の力や神様といった大きなものを崇めるのではなく、人間が自分の力で人間のことを考え始めたことで生まれたのがこの学問だ。その意味では大なり小なり、すべてのJ-POPは“哲学的”と言えなくもない。
それなのに野田の書くものに特にそんな印象が強いのは、彼独特の言葉遣いが、しばしば哲学用語を連想させるからだろう。「有心論」は、まさにタイトルからしてそのひとつとみなされている(なかには「ソクラティックラブ」という、ソクラテスやアルキメデスなどが関係してそうな歌もあり、さらに「記号として」も、この“記号”がソシュールなどの言語学に関係あるなら充分に思想的と言えるだろう)。
「有神論」の反対は、普通なら「無神論」だけど…。
さてさっそく「有心論」の歌詞をみてみよう。でも、彼の造語とおぼしきこの曲タイトルだけで、ご飯が三杯食べられそうだ(こう書いておいて、彼らの「いいんですか?」という歌を思い出す。あっちは“お前”が“おかず”ならご飯を50杯おかわり出来るというんだから、僕よりかなり上手だ!)。
さてこの言葉、普通に連想するなら“有神論”の真ん中の“神”を同音の“心”に置き換えたものと推測出来る。つまりは“有神論”からの派生語ということ。そして“神の存在を信じる”ことが元の言葉だったら、“心の存在を信じる”、という意味になる。
ただ、派生語と書いたけど、もしかしたらこれも反対語かもしれない。“心の存在を信じる”という行為を、神の代わりに心を信じると解釈するなら、“無神論”に近い意味になる。ちなみに野田の他の作品で、これらに関連すると思しきものを探してみると、「狭心症」の中では“主よ”と呼び掛ける場面がある。ここでは寧ろ、彼はれっきとした“有神論者”と推測出来る。
「嘘」と「ホント」「嫌い」と「好き」について
やっとタイトルを越えて、歌詞の冒頭へ辿り着く。で、いきなり印象的なフレーズに出くわす。「嘘」と「ホント」、「嫌い」と「好き」を天秤にかけるかのような表現があって、しかし結果は目盛りに目を凝らさずとも本人には分かってしまっている。ペシミスティックな空気が覆う。こうして原稿を書いていても、気が滅入る。でも…。「嘘」と「ホント」、「嫌い」と「好き」というのは、テキトーに並べた二項対立というわけではない。前者のふたつは社会と接している外側の自分、“仮面”を被った自分の状態のことで、後者はまさに、内心思っていることだ。どっちかひとつでも好結果なら、まだ救われるのだけど…、ダメだこりゃ。
その次の“どうせいつかは”では、それまで心理状態の描写だったことから一転、時間に対する概念が主となる…、というか、いずれ「結果」として訪れる「近未来」に対しての先回り(正確には現時点での決断で、なんとか時間の“巻き戻し”を図る)に奔走する。でもその姿はもがき苦しんでいるように見える。
恋愛の敗者となる兆しがある人間に、有り難くないけど宿ってしまう「予知能力」のようなものは、これまでのラブ・ソングの歌詞に影響を与えてきた(“片想いソング”とか、その活用が顕著)が、この場合、実に実にリアルだ。そんな健気ともいえる主人公に対して、聴き手である我々は、とっても切ない気持ちになる。この切なさは、もちろんこの歌に対する感動だ。
“人間〇〇〇”攻撃により、せき立てられる
さて、さらに歌は進んでいくのだが、このあと“人間不信者”と“人間信者”という言葉が対になって出てくる。さらに“人間洗浄機”なる未来のマシンのようなものも登場させているのだ。このあたりの“人間〇〇〇”攻撃は、なんかカクカクした語感も手伝って、聴いてて心がせき立てられる。 ただ、この“洗浄機”に対しては、ちゃんと伏線が敷かれているようだ。それは、ここに至る少し前の「君」とのやりとり。“綺麗に泣く”“横で笑った”“つられて笑う”“泣く 泣く”だ。これは明らかに、精神がそのことで浄化されていく模様を実況中継した部分。そしてそのあと、“洗浄機”の登場となるわけである。非常にスペクタクルな伏線の回収だったわけだ。お見事!
なんだか知らないけど、このあたりは聴いていて、切なさを越え、さっきの“浄化”じゃないけど、気持ちいい、清々しい気分にもなる。この清々しさは、もちろんこの歌に対する感動だ。
お待たせ。いちばん有名なフレーズです。
さて“人間洗浄機”だが、一部の研究所のものではなく、民生用も開発されたようだ。庶民にも手が届くものとなったようで、そのあと、テレビ・ショッピングのような売り文句の呼び込みもなされ、さらにどうなるのかと思うと、な、なんと「有心論」に、“神様”という言葉が初めて登場する。しかしそれは“君のクローン”、しかししかしそれは要するに“人間洗浄機”のことを指しているとも受け取れなくはない。ただ、よく聴けば、“人間洗浄機”も“君のクローン”も、歌詞の中に“成功した時にでも”とあるように、未だ想像の中の産物なのだろう。ここらあたりから非常に混乱してくるけど、絶望の淵にあった人間が、どこかで一筋の光を見つけていくというか、なにか啓示のようなものを受けたような雰囲気も、少しづつ醸し出されていく。その際、最も重要なフレーズは、“息を止めると心があった”という、この印象的な表現だろう。
野田洋次郎の歌詞は“哲学的”ということを、改めてここで思い出すなら、あの『死に至る病』のキルケゴールである。この人は、人間、絶望の淵にあっても、僅かな可能性を信じれば「神」の存在を感じることが出来るんだと説いた。これをそのまま「有心論」にあてはめるなら、“左心房に君がいる”という、ここがその可能性に相当する、というこの歌の聴き方も出来る。
“自殺志望者”を“永久幸福論者”に変える、という、最後のほうに出てくるこのフレーズには、これまでも多くの人達が救われてきただろう。途中、どっぷりペシミスティックな気分に苛まれたけど、最後まで聴いて良かったと思えた瞬間だ。
と、ここでは終われない。「あのフレーズについて語ってないではないか?」。読者の方からそんなツッコミがありそうだ。そう。“端っこで泣かないよう”に君は“地球を丸くした”という、この非常に有名なフレーズである。こんなイメージが頭の中を占領していた時の主人公は、おそらく“Google マップ・超・俯瞰状態”だったのではと思う。失恋の痛手により己の肉体が質量を失い、魂が上昇し、自分が居る小さな部屋がグワーッと俯瞰され、そこに丸い地球が現れたのだ。
ただ、昭和歌謡にも詳しい僕は、確かにここの部分、紛れもない傑作キラー・フレーズだけど、凄く驚いたわけじゃない。フォー・リーブスの「地球はひとつ」という歌を知ってるからなのだ。
小貫信昭の名曲!言葉の魔法 Back Number
プロフィール 小貫 信昭
(おぬきのぶあき)
文章を書くことと歌が大好きだったこともあって、音楽を紹介する職業に就いて早ウン十年。でも新しい才能と巡り会えば、己の感性は日々、更新され続けるのです。やはりやはり大感激だったのが宇多田ヒカルの新作『Fantome』。最初は周囲で鳴ってて何気に耳に飛び込んでくる音楽にくらべ、静かな印象もあったけど、要は周囲が喧しすぎたのでは、なんていう、そんな想いに至らせる、音の一粒一粒すべて丁寧に磨き込また作品集。それでいて神経質じゃなく風通しが良くて、演奏と歌詞の言葉とが、互いの余韻を補い合うかのようでもあって…。このCDを部屋に流すことで、いつでも僕と宇多田ヒカルとの一対一の音楽フェスは始まるのでありました。いや名作は、何万語あっても語り尽くせませーん。
文章を書くことと歌が大好きだったこともあって、音楽を紹介する職業に就いて早ウン十年。でも新しい才能と巡り会えば、己の感性は日々、更新され続けるのです。やはりやはり大感激だったのが宇多田ヒカルの新作『Fantome』。最初は周囲で鳴ってて何気に耳に飛び込んでくる音楽にくらべ、静かな印象もあったけど、要は周囲が喧しすぎたのでは、なんていう、そんな想いに至らせる、音の一粒一粒すべて丁寧に磨き込また作品集。それでいて神経質じゃなく風通しが良くて、演奏と歌詞の言葉とが、互いの余韻を補い合うかのようでもあって…。このCDを部屋に流すことで、いつでも僕と宇多田ヒカルとの一対一の音楽フェスは始まるのでありました。いや名作は、何万語あっても語り尽くせませーん。