先日、横浜アリーナで彼のライヴを観て感じたのは、人気者になっても浮かれず、己を客観視できることから生まれる包容力。さらに、彼ならでは“独特の冷静沈着さ”というか、そこからこぼれる自然なユーモアも、実に魅力的だった。それをアリーナという広い空間でも、平常心で通していた。普通、広いところならもっと“演じた”ほうが楽だけど、彼は闇雲に叫んだりして誤魔化さず、丁寧に語りかけることをやめなかった。
生で聴いて改めて感じるボーカリストとしての良さは、全音域、さらにファルセットも含めて繋がりがよく、声の魅力的なトーンが活かされ、歌全体のまとまりがすこぶる良い点だ。それは「ひまわりの約束」一曲からでも充分に伝わった。思えばこのコラム初登場である。なのでやはり、この曲を取り上げることにしよう。
「ひまわり」に与えた新たな“季語”
この作品、タイトルからして夏の歌のようだけど、冬にこそありがたい歌詞かもしれない。そもそもヒ・マ・ワ・リという語感からして、なんかとっても温かい。ご存知かもしれないが、もともとは映画『STAND BY ME ドラえもん』の主題歌として書かれた作品である。その際、本人がインタビューで言ってたのは、お子さんも観る映画なので、幅広い年齢層に届く歌を…、ということだった。
アーティストは、時にそんな発言をするものである。実際は、容易いことじゃない。意識するあまり、本来の個性がなくなり、当たり障りのない作品になることだって考えられる。そんな中、「ひまわりの約束」は、とても成功した例と言えるだろう。
『STAND BY ME ドラえもん』という作品においては、ドラえもんとのび太という、二人の別れと再会を描くストーリーのよき背景として機能していた。さらにその役割を越え、今度は不特定多数の人達が思い入れることが出来るJ-POPのスタンダード曲として育っていった。一定の時間をかけ、聴き手ひとりひとりの想いに適っていったからこそ、この歌はそうなった。
歌詞全体を見てみると、「宝物」「優しさ」「温もり」など、平易な言葉が並んでいるのが分かる。これはまさに、幅広い聴き手を意識してのことかもしれない。そして最大のキーワードは、曲タイトルにもなっている「ひまわり」だろう。ただし歌詞の中では、〜のような[まっすぐなその優しさ]という使い方をしていて、実際にこの植物が登場するわけではない。
でも“まっすぐな優しさ”とはどういうものだろうか? すぐ思い浮かぶのは、打算のない、心からの優しさ、ということだ。それを「ひまわり」になぞらえているのだが、ここは大切な部分なので、もう少し考えてみよう。
おそらく“まっすぐな”というのは、この花の特性である、素直に太陽のほうへ向かっていく姿からの連想だろう。でも、それだけだろうか。秦基博のこの歌の場合、花そのものもそうだが、植物全体の“佇まい”にも着目してる気がするのだ。つまり“まっすぐな”とは、すーっと地面から伸びた茎の部分のことでもある、と…。
実際に「ひまわり」が登場するわけじゃないし、また、登場するならセットにしなきゃならない“真夏の太陽”というのも必要ない。そうなったら歌から伝わる光線もジリジリと焼け付くものである必要がありそうだが、そうじゃないので、この歌には秋から冬の木洩れ日だって似合う。どんな季節だろうと、遠くであの花をながめていた記憶さえ呼び起こせばいいわけだ。「ひまわり」という言葉の季語である夏を、こうして越えてみせたのがこの歌なのだ。
冒頭から泣ける歌
さてこのコラムらしく、歌詞を細かく見ていくことにしよう。でも、一行目から、クギヅケなのである。もぅ、ズルいよねぇ〜、と言いたいくらい、[どうして君が泣く…]の冒頭からして、いきなり涙腺が崩壊しそうである。しかもこの言葉を追いかけるような、次のフレーズが効いている。[僕も泣いていないのに」…。この部分が耳に届いた時点で、改めて[どうして君が…]の感動が脳のなかで二度塗りされるというか、そんな伝わり方をするのである。
聴いてて僕は、ふと、登場人物二人の目元のアップを横から捉えた映像が浮かぶのだった。互いに涙が溢れ始め、しかし水晶体を厚く覆いつつも表面張力で堪え、しかし相手のほうが、先に下瞼付近の決壊を起こしてしまい、[どうして君が…]の台詞が口をつく。そして[つらいのがどっちか]という歌詞が、さらなる感動を連れてくるわけだ。
いや分かってる。お読みの貴方が言いたいことは分かる。辛いのはどっちなんてヤボなことは訊かないで…。辛いのは、そりゃ両方でしょ! こんな緊急場面で、辛さに優劣などあるはずがなーい。仰りたいことは、重々承知している。でもなぜか、この歌は“どっち”なのかを問題にしている。
それはきっと、気持ちというのは伝わっていく(流れていく)からこそ気持ちとして形を成すからなのだろう。送り手と受け手の関係が必要なのだ。せーので同時に悲しいぃー、ではダメなのだ。「ひまわりの約束」は全体が素晴らしいが、この部分は特に素晴らしい。J-POPの数ある名曲のなかでも、トップクラスの切なさが伝わる。
サビの遠近法について
さらにさらに、この歌は平易な言葉ではあるが奥深いフレーズのオンパレードである。たとえば[遠くでともる未来]のあとに、[出会えると信じて]の“受け”が用意されるのも巧みな歌詞構成である。
いったん別れ別れになった二人は、未来で出会うことを願うのだけど、その願いのみが提示されてあとは知らんぷりの放置だとしたら、なんかちょっと興ざめだ。そこで効いているのが[遠くでともる未来」なのである。つまり、“ともる”(=灯る)ものであるなら、いまは別々の場所にいる両者であっても、お互いが同一の目印、再会の場所にすることが出来る。
最後はサビの部分について書く。ここでは“遠近法”が使われている(でも、絵画などにおけるそれとは違う意味で、勝手にこの言葉を使わせてもらっている)。具体的には[そばにいたいよ]のところ。この言葉を、ありったけ遠くへと歌い放つかのようなサビとなっているわけである。そこに生まれた落差によって、伝わる感情もよりぶ厚いものになる。
[いつも君に][ずっと君に]の、あえて重複させているところも、とっても感情が伝わる。さらに、ワン・コーラス目の[そばにいたいよ]のあと、ツー・コーラス目では[そばにいること]に変化させているのも見逃せない。最初はまだこの別れに対して、感情が高ぶったままだったのが、二度目では、ある程度それも整理され、現実を受け入れつつあるのかな…、というニュアンスにも響くのだ。
生で聴いて改めて感じるボーカリストとしての良さは、全音域、さらにファルセットも含めて繋がりがよく、声の魅力的なトーンが活かされ、歌全体のまとまりがすこぶる良い点だ。それは「ひまわりの約束」一曲からでも充分に伝わった。思えばこのコラム初登場である。なのでやはり、この曲を取り上げることにしよう。
「ひまわり」に与えた新たな“季語”
この作品、タイトルからして夏の歌のようだけど、冬にこそありがたい歌詞かもしれない。そもそもヒ・マ・ワ・リという語感からして、なんかとっても温かい。ご存知かもしれないが、もともとは映画『STAND BY ME ドラえもん』の主題歌として書かれた作品である。その際、本人がインタビューで言ってたのは、お子さんも観る映画なので、幅広い年齢層に届く歌を…、ということだった。
アーティストは、時にそんな発言をするものである。実際は、容易いことじゃない。意識するあまり、本来の個性がなくなり、当たり障りのない作品になることだって考えられる。そんな中、「ひまわりの約束」は、とても成功した例と言えるだろう。
『STAND BY ME ドラえもん』という作品においては、ドラえもんとのび太という、二人の別れと再会を描くストーリーのよき背景として機能していた。さらにその役割を越え、今度は不特定多数の人達が思い入れることが出来るJ-POPのスタンダード曲として育っていった。一定の時間をかけ、聴き手ひとりひとりの想いに適っていったからこそ、この歌はそうなった。
歌詞全体を見てみると、「宝物」「優しさ」「温もり」など、平易な言葉が並んでいるのが分かる。これはまさに、幅広い聴き手を意識してのことかもしれない。そして最大のキーワードは、曲タイトルにもなっている「ひまわり」だろう。ただし歌詞の中では、〜のような[まっすぐなその優しさ]という使い方をしていて、実際にこの植物が登場するわけではない。
でも“まっすぐな優しさ”とはどういうものだろうか? すぐ思い浮かぶのは、打算のない、心からの優しさ、ということだ。それを「ひまわり」になぞらえているのだが、ここは大切な部分なので、もう少し考えてみよう。
おそらく“まっすぐな”というのは、この花の特性である、素直に太陽のほうへ向かっていく姿からの連想だろう。でも、それだけだろうか。秦基博のこの歌の場合、花そのものもそうだが、植物全体の“佇まい”にも着目してる気がするのだ。つまり“まっすぐな”とは、すーっと地面から伸びた茎の部分のことでもある、と…。
実際に「ひまわり」が登場するわけじゃないし、また、登場するならセットにしなきゃならない“真夏の太陽”というのも必要ない。そうなったら歌から伝わる光線もジリジリと焼け付くものである必要がありそうだが、そうじゃないので、この歌には秋から冬の木洩れ日だって似合う。どんな季節だろうと、遠くであの花をながめていた記憶さえ呼び起こせばいいわけだ。「ひまわり」という言葉の季語である夏を、こうして越えてみせたのがこの歌なのだ。
冒頭から泣ける歌
さてこのコラムらしく、歌詞を細かく見ていくことにしよう。でも、一行目から、クギヅケなのである。もぅ、ズルいよねぇ〜、と言いたいくらい、[どうして君が泣く…]の冒頭からして、いきなり涙腺が崩壊しそうである。しかもこの言葉を追いかけるような、次のフレーズが効いている。[僕も泣いていないのに」…。この部分が耳に届いた時点で、改めて[どうして君が…]の感動が脳のなかで二度塗りされるというか、そんな伝わり方をするのである。
聴いてて僕は、ふと、登場人物二人の目元のアップを横から捉えた映像が浮かぶのだった。互いに涙が溢れ始め、しかし水晶体を厚く覆いつつも表面張力で堪え、しかし相手のほうが、先に下瞼付近の決壊を起こしてしまい、[どうして君が…]の台詞が口をつく。そして[つらいのがどっちか]という歌詞が、さらなる感動を連れてくるわけだ。
いや分かってる。お読みの貴方が言いたいことは分かる。辛いのはどっちなんてヤボなことは訊かないで…。辛いのは、そりゃ両方でしょ! こんな緊急場面で、辛さに優劣などあるはずがなーい。仰りたいことは、重々承知している。でもなぜか、この歌は“どっち”なのかを問題にしている。
それはきっと、気持ちというのは伝わっていく(流れていく)からこそ気持ちとして形を成すからなのだろう。送り手と受け手の関係が必要なのだ。せーので同時に悲しいぃー、ではダメなのだ。「ひまわりの約束」は全体が素晴らしいが、この部分は特に素晴らしい。J-POPの数ある名曲のなかでも、トップクラスの切なさが伝わる。
サビの遠近法について
さらにさらに、この歌は平易な言葉ではあるが奥深いフレーズのオンパレードである。たとえば[遠くでともる未来]のあとに、[出会えると信じて]の“受け”が用意されるのも巧みな歌詞構成である。
いったん別れ別れになった二人は、未来で出会うことを願うのだけど、その願いのみが提示されてあとは知らんぷりの放置だとしたら、なんかちょっと興ざめだ。そこで効いているのが[遠くでともる未来」なのである。つまり、“ともる”(=灯る)ものであるなら、いまは別々の場所にいる両者であっても、お互いが同一の目印、再会の場所にすることが出来る。
最後はサビの部分について書く。ここでは“遠近法”が使われている(でも、絵画などにおけるそれとは違う意味で、勝手にこの言葉を使わせてもらっている)。具体的には[そばにいたいよ]のところ。この言葉を、ありったけ遠くへと歌い放つかのようなサビとなっているわけである。そこに生まれた落差によって、伝わる感情もよりぶ厚いものになる。
[いつも君に][ずっと君に]の、あえて重複させているところも、とっても感情が伝わる。さらに、ワン・コーラス目の[そばにいたいよ]のあと、ツー・コーラス目では[そばにいること]に変化させているのも見逃せない。最初はまだこの別れに対して、感情が高ぶったままだったのが、二度目では、ある程度それも整理され、現実を受け入れつつあるのかな…、というニュアンスにも響くのだ。
小貫信昭の名曲!言葉の魔法 Back Number
プロフィール 小貫 信昭
(おぬきのぶあき)
文章を書くことと歌が大好きだったこともあって、音楽を紹介する職業に就いて早ウン十年。でも新しい才能と巡り会えば、己の感性は日々、更新され続けるのです。毎週、楽しみに観ていた「地味にスゴイ!校閲ガール・河野悦子」も、次が最終回ということで、なんとも寂しい限りですが、このドラマ、ともかく石原さとみさんの演技力が、ともかく素晴らしいですね。もちろん、まわりを固める役者さん達も効いてるわけなのですが…。ところで「校閲」というと、僕も本は何冊か出したことあるので、河野悦子さんほどじゃないけど、「そ、そこを指摘しますかね?!」って経験があって、なのであのドラマ、熱中したところもあるのですが…。いや「校閲」の人達は、あそこで描かれてる通り、凄い人達なのですよ。
文章を書くことと歌が大好きだったこともあって、音楽を紹介する職業に就いて早ウン十年。でも新しい才能と巡り会えば、己の感性は日々、更新され続けるのです。毎週、楽しみに観ていた「地味にスゴイ!校閲ガール・河野悦子」も、次が最終回ということで、なんとも寂しい限りですが、このドラマ、ともかく石原さとみさんの演技力が、ともかく素晴らしいですね。もちろん、まわりを固める役者さん達も効いてるわけなのですが…。ところで「校閲」というと、僕も本は何冊か出したことあるので、河野悦子さんほどじゃないけど、「そ、そこを指摘しますかね?!」って経験があって、なのであのドラマ、熱中したところもあるのですが…。いや「校閲」の人達は、あそこで描かれてる通り、凄い人達なのですよ。