街は歓送迎会の季節であり、路上で団体行動している人達を見掛ける機会も多い。先日の夜も地下鉄・半蔵門駅の階段の途中の居酒屋さんの前で、送別会の二次会を探す7~8人と遭遇した。「満席だって。どうしよう…」。店から出てきた一人が呟く。そのなかの一人は花束を持っていた。正確に書くなら、手提げから花が覗いていた。こんな光景に出くわすと、「春だなぁ」と思う。
その手提げ、やけに印象に残った。考えてみたら花束は、受け渡しの瞬間にこそ最大の関心が集まるけど、それを過ぎれば所在なさげである。それでも受取った方は邪険にできないので、このような扱いとなる。
具体的な“花束ソング”というのは以外に少ない
人の気持ちというのは目には見えないものだ。しかし花束は、それを色とりどりに具現化する。束の大小が、贈る側の気持ちを正比例させたりもする。もし歌のなかで上手に使えば、効果もバツグン。しかし…。使う時は覚悟が必要かもしれない。
そもそも“ハ・ナ・タ・バ”という響き自体、やけに目立つものだし、聴いてるほうも、この言葉を最大限の関心とともに聴き取ろうとする。歌詞を構成する上で難しそうなのは、渡した・受取った後のことをどうエピソードとして繋げるか、だろう。まさか“手提げ”は出せない。
それもあってか、具体的な花束が出てくる歌は、思ったより少ない。比喩としてタイトルなどに使ったり、“○○○を花束にして…”みたいな使い方なら、けっこうあるようだけど…。
“大袈裟”という言葉が効いてる
取り扱いが難しいこの言葉を、見事に歌い込んだのがSuperflyの「愛をこめて花束を」だ。ボーカル・越智志帆の胸のすく名唱で、彼女が一気にブレイクを果たした楽曲である。現在はメンバーではなくコンポーザー・プロデューサーとして活躍するギターの多保孝一が、アマチュアの頃から温めていた楽曲を、発展させる形で完成させたものだそうだ。
改めて聴いてみると、ひとつの重要な言葉に出くわす。それは、[大袈裟だけど 受け取って]である。ここでぐっと、歌のリアリティが増す。この歌の主人公は、改めて相手に花束を渡す行為を“大袈裟”だと認識している。それなのに、なぜ渡す必要があったのか次に考えてみることにしよう。
[無理に描く理想]と[笑い合える今日]
この歌が心に響くのは、この二つの言葉の向き合い方に因るところも大きい。山本譲二の「みちのく一人旅」ほど切迫はしていないけど、巡り巡って、最後はごく身近なところに、真の幸せを見つけるということでは、このふたつの歌、テーマが似てなくもない。
そして重要な二つの言葉。「愛をこめて花束を」の主人公は、[無理に描く理想]に苛まれた時期もあったけど、それより身近にある[笑い合える今日]の大切さを知ることになり、旧知である(元の彼氏と考えるのが自然だろう)相手に、改めて意思表示をする必要を感じたのだ。
その際、もうひとつ大切な表現があって、[理由なんて訊かないで]だ。そう。この言葉が効いてる。日常生活に突然登場させるには不釣り合い(つまり[大袈裟]な)花束を、敢えて登場させた必然もここに生まれる。
ただ黙って受取ってもらいたいと願ったのは、それが紛れもなく、彼女の純粋な気持ちの顕われだったからだ。しかも突然、啓示であるかのように、何かが背中を押したかもしれない。いっさい形式的なことじゃなく(形式だったら理由が必要だ)、言葉も超えたものであって、なので花束が必要だったとも言える。
花束を渡すのは一般的に言って[大袈裟]かもしれないが、彼女の気持ち自体、それに見合う、いや、それを凌駕するほど大きなものだったということだ。こうしてこの作品は、取り扱いが難しい花束という言葉を、見事、歌のなかで活かし切ったのだ。
歌詞の共作関係について
「愛をこめて花束を」の作詞クレジットは[越智志帆+多保孝一+いしわたり淳治]となっている。これは推測だけど、そもそもの原曲は多保孝一が作ったものであって、それを歌う際に越智志帆が、より自分の気持ちに重ね合わせて歌唱できるものとして発展させたのだろう。現在も多保とよくコンポーザーとしてコンビを組んでいるいしわたりは、おそらくプロの作詞家として、この歌の完成度に寄与したのではと想われる。
ただ、僕は“どの部分を誰が書いた”的なことに興味があるわけじゃない。そもそもレノン= マッカートニーというロック~ポップ界の怪物コンビにしたって、「実はこの曲はほとんどポールが…」みたいな情報というのは、ひとつのエピソードに過ぎない。聴いてる側は、ひとつの作品として聴いてるわけなのだし…。
色の名前が出てくる部分について
この歌の斬新なところは[violet indigo…]と、色の名前が出てくる部分である。歌詞というよりも、間奏部分に彼女がこれらをフェイクで加えている、という受け取り方も出来る。全体に60~70年代の良質なギター・ロックのサウンドの作品なのだが、ここではギターもよりサイケデリックに炸裂する。PVを見ると、まさにそうであり、ここで出てくる色の名前は、60年代のヒッピー文化華やかなりし頃の“サイケ・ペイント”の“言語化”でもある。それでいて同時に、主人公の感情の起伏を表わしているとも思え、違和感ない。
結婚式ソングとしての「愛をこめて花束を」
この歌は、結婚式でもよく歌われるものなのだそうだ。でもそう想って聴いた場合、ちょっと新郎側の参列者としてはムムムな意味合いを感じないわけでもない。すでに説明した通り、この歌の主人公の女性は、ある程度のタラレバも経験し、その後、“無理に描く理想”より身近な幸せを選んだと受け取れなくもない。若い女性達が話題にする、“恋人にするヒトと結婚するヒトは違う”的な文脈の歌と、思えないこともないのだ(あくまで新郎側の参列者として…)。このあたり、実に興味深い。ここでは“興味深い”、とだけ書いておくことにしよう。
その手提げ、やけに印象に残った。考えてみたら花束は、受け渡しの瞬間にこそ最大の関心が集まるけど、それを過ぎれば所在なさげである。それでも受取った方は邪険にできないので、このような扱いとなる。
具体的な“花束ソング”というのは以外に少ない
人の気持ちというのは目には見えないものだ。しかし花束は、それを色とりどりに具現化する。束の大小が、贈る側の気持ちを正比例させたりもする。もし歌のなかで上手に使えば、効果もバツグン。しかし…。使う時は覚悟が必要かもしれない。
そもそも“ハ・ナ・タ・バ”という響き自体、やけに目立つものだし、聴いてるほうも、この言葉を最大限の関心とともに聴き取ろうとする。歌詞を構成する上で難しそうなのは、渡した・受取った後のことをどうエピソードとして繋げるか、だろう。まさか“手提げ”は出せない。
それもあってか、具体的な花束が出てくる歌は、思ったより少ない。比喩としてタイトルなどに使ったり、“○○○を花束にして…”みたいな使い方なら、けっこうあるようだけど…。
“大袈裟”という言葉が効いてる
取り扱いが難しいこの言葉を、見事に歌い込んだのがSuperflyの「愛をこめて花束を」だ。ボーカル・越智志帆の胸のすく名唱で、彼女が一気にブレイクを果たした楽曲である。現在はメンバーではなくコンポーザー・プロデューサーとして活躍するギターの多保孝一が、アマチュアの頃から温めていた楽曲を、発展させる形で完成させたものだそうだ。
改めて聴いてみると、ひとつの重要な言葉に出くわす。それは、[大袈裟だけど 受け取って]である。ここでぐっと、歌のリアリティが増す。この歌の主人公は、改めて相手に花束を渡す行為を“大袈裟”だと認識している。それなのに、なぜ渡す必要があったのか次に考えてみることにしよう。
[無理に描く理想]と[笑い合える今日]
この歌が心に響くのは、この二つの言葉の向き合い方に因るところも大きい。山本譲二の「みちのく一人旅」ほど切迫はしていないけど、巡り巡って、最後はごく身近なところに、真の幸せを見つけるということでは、このふたつの歌、テーマが似てなくもない。
そして重要な二つの言葉。「愛をこめて花束を」の主人公は、[無理に描く理想]に苛まれた時期もあったけど、それより身近にある[笑い合える今日]の大切さを知ることになり、旧知である(元の彼氏と考えるのが自然だろう)相手に、改めて意思表示をする必要を感じたのだ。
その際、もうひとつ大切な表現があって、[理由なんて訊かないで]だ。そう。この言葉が効いてる。日常生活に突然登場させるには不釣り合い(つまり[大袈裟]な)花束を、敢えて登場させた必然もここに生まれる。
ただ黙って受取ってもらいたいと願ったのは、それが紛れもなく、彼女の純粋な気持ちの顕われだったからだ。しかも突然、啓示であるかのように、何かが背中を押したかもしれない。いっさい形式的なことじゃなく(形式だったら理由が必要だ)、言葉も超えたものであって、なので花束が必要だったとも言える。
花束を渡すのは一般的に言って[大袈裟]かもしれないが、彼女の気持ち自体、それに見合う、いや、それを凌駕するほど大きなものだったということだ。こうしてこの作品は、取り扱いが難しい花束という言葉を、見事、歌のなかで活かし切ったのだ。
歌詞の共作関係について
「愛をこめて花束を」の作詞クレジットは[越智志帆+多保孝一+いしわたり淳治]となっている。これは推測だけど、そもそもの原曲は多保孝一が作ったものであって、それを歌う際に越智志帆が、より自分の気持ちに重ね合わせて歌唱できるものとして発展させたのだろう。現在も多保とよくコンポーザーとしてコンビを組んでいるいしわたりは、おそらくプロの作詞家として、この歌の完成度に寄与したのではと想われる。
ただ、僕は“どの部分を誰が書いた”的なことに興味があるわけじゃない。そもそもレノン= マッカートニーというロック~ポップ界の怪物コンビにしたって、「実はこの曲はほとんどポールが…」みたいな情報というのは、ひとつのエピソードに過ぎない。聴いてる側は、ひとつの作品として聴いてるわけなのだし…。
色の名前が出てくる部分について
この歌の斬新なところは[violet indigo…]と、色の名前が出てくる部分である。歌詞というよりも、間奏部分に彼女がこれらをフェイクで加えている、という受け取り方も出来る。全体に60~70年代の良質なギター・ロックのサウンドの作品なのだが、ここではギターもよりサイケデリックに炸裂する。PVを見ると、まさにそうであり、ここで出てくる色の名前は、60年代のヒッピー文化華やかなりし頃の“サイケ・ペイント”の“言語化”でもある。それでいて同時に、主人公の感情の起伏を表わしているとも思え、違和感ない。
結婚式ソングとしての「愛をこめて花束を」
この歌は、結婚式でもよく歌われるものなのだそうだ。でもそう想って聴いた場合、ちょっと新郎側の参列者としてはムムムな意味合いを感じないわけでもない。すでに説明した通り、この歌の主人公の女性は、ある程度のタラレバも経験し、その後、“無理に描く理想”より身近な幸せを選んだと受け取れなくもない。若い女性達が話題にする、“恋人にするヒトと結婚するヒトは違う”的な文脈の歌と、思えないこともないのだ(あくまで新郎側の参列者として…)。このあたり、実に興味深い。ここでは“興味深い”、とだけ書いておくことにしよう。
小貫信昭の名曲!言葉の魔法 Back Number
プロフィール 小貫 信昭
(おぬきのぶあき)
文章を書くことと歌が大好きだったこともあって、音楽を紹介する職業に就いて早ウン十年。でも新しい才能と巡り会えば、己の感性は日々、更新され続けるのです。
新年度からのNHK朝のテレビ小説「ひよっこ」。主題歌を担当したのは桑田佳祐。すでに発表されていた「若い広場」という、このタイトルからして昭和を感じていたのですが、いざ放送が始まり流れてきたのは、まさに、まさにそんな雰囲気の楽曲でした。想えば桑田佳祐というヒトは、「チャコの海岸物語」などの時代から、日本のポップ史の縦のつながりを尊重して楽曲作りしてきた人であって、その本領発揮ともいえる仕上がりなのでした。まだ曲の全貌は不明なのですが、後半、コーラスを重視したアレンジにもなっていて、このあたりも含め、年末の紅白歌合戦でぜひ観てみたいなぁ、などと、まだ四月になったばかりですが、早くもそんなことを考えているのでした。
文章を書くことと歌が大好きだったこともあって、音楽を紹介する職業に就いて早ウン十年。でも新しい才能と巡り会えば、己の感性は日々、更新され続けるのです。
新年度からのNHK朝のテレビ小説「ひよっこ」。主題歌を担当したのは桑田佳祐。すでに発表されていた「若い広場」という、このタイトルからして昭和を感じていたのですが、いざ放送が始まり流れてきたのは、まさに、まさにそんな雰囲気の楽曲でした。想えば桑田佳祐というヒトは、「チャコの海岸物語」などの時代から、日本のポップ史の縦のつながりを尊重して楽曲作りしてきた人であって、その本領発揮ともいえる仕上がりなのでした。まだ曲の全貌は不明なのですが、後半、コーラスを重視したアレンジにもなっていて、このあたりも含め、年末の紅白歌合戦でぜひ観てみたいなぁ、などと、まだ四月になったばかりですが、早くもそんなことを考えているのでした。