今回はaikoの「花火」をとりあげる。言わずと知れた、彼女の初期の名作だ。ところで今年、デビュー20周年だそうだ。実は最初のころ、彼女によく取材していた。
まずはその頃のaikoの思い出を。
覚えているのは、インタビューしやすいヒトだった、ということ。よく気がつくし、頭の回転も早い。何よりこちらの質問の意図を、真剣に汲み取ろうとしてくれる。
そのことを訊いたことがあった。すると、彼女はデビューするかしないかの時、ラジオで様々な人にインタビューする仕事をしてたのだそうだ。なかには勿体付けて、なかなか喋ってくれない人もいた。もし自分が逆の立場になったら、そういう態度はやめよう…。新人とはいえ“反対側の気持ち”を知っていたわけだ。 曲と関係ないこと書いてしまったが、20周年ということで、なんか書きたくなってしまった。ではさっそく、「花火」の話を…。
実はこの歌のなかで、実際の「花火」は上がっていない
楽しみにしていた花火大会に行けなくなって、果たされなかった気持ちが残り、でも歌のなかで、果たされなかったがゆえ表現としては助長され、そして出来上がったのがこの歌らしい。歌詞の最初のほうで、[花火は今日も上がらない]と歌っているが、この場合は比喩表現にも取れる。一途な恋を描いた歌で、その想いが“成就しない=上がらない”ということだ。しかし聴き進むと、ドッカンドッカンと、実に派手な歌でもある。
途中に出てくる言葉が[うわっと飛んでく]という表現もいい。この“うわっ”は、本人も無自覚でちょっと驚きとともに自分の身に起こったことを受け止めようとして受け止め切れていない状態に思える。そもそもこの1コーラス目の最初の部分は、未だ主人公の意識は寝起きの“シーツ”に包まれた状態というか、[もやがかかった…]以降、抽象の極みみたいな言葉も並んでいる。つまりはそう、そんな気分だったということだろう。
星座にぶらさがると、どんな気分なのだろう?
ともかくこの歌で超有名なのは、サビの部分である。この恋が成就するかといえば、パーセンテージは低い。しかしサビでは、目一杯、解放された気分になる。
古い映画で『ペイパー・ムーン』というのがある。主題歌も知られている。お月様に恋人同士が腰掛けるシーンが有名で、ただ、実際には写真撮影用の月の形をした板に座り、記念に撮るだけなのだが、このメルヘンチックなイメージは、今でも色褪せていない。この映画からインスパイアされて書かれたJ-POPもある。
この場合は腰掛けているわけで、安定してる。aikoは違う。[夏の星座にぶらさがって]、花火を[見下ろして]しまうのだ。この、誰も思いつかないスペクタクルな感覚が素晴らしい。
ぶら下がるのだ。腕の力が必要だ。時間が経ったら、上腕二頭筋が痙攣し、落っこちてしまうかもしれない。しかしこれは、もうこの感情から[戻れない]という、切羽詰まった状態ゆえの表現なのだ。腕が痙攣だなんて、せっかくの名曲なのに恐縮だけど…。でも花火って、真上からみると、どんな感じだろう。花火中継の空撮でなら見たことあるが、真上だと、絢爛な花火も、どこか謙虚に見える気がする。
花火のサイズは、途中でさり気なく、入れ替わっているのかもしれない
歌詞には他にも、主人公が花火よりさらに上空に居るからこそ可能な描写がある。[涙を落として]、[最後の残り火]に手を振る、というあたりだ。
普通に考えて、涙の水分で花火を消火しようとした、ということだろう。しかし分量は限られているので、鎮火とはいかず、[残り火]となる。でも、ここで考えてほしい。
もしかして、気付かないうちにこの花火は、大会の何寸玉から、庭先の線香花火へと、すり替わっているのではなかろうか? いつしか歌のなかで、イメージの交換が行われている。もし線香花火なら、涙でも、“ジッ”という音とともに、消すことができる。
このあたりは巧みだ。aikoは歌作りの匠なのだ。妄想バリバリのようでいて、いつしか表現を、日常のなかであり得るものへと入れ換えて、この歌を、どんどん身近なものへと引き寄せている。
主人公に助言してくる“三角の目の天使”って、誰のことなのだろう?
さて、この歌を聴いた人が?????に思うのは、[三角の目をした羽ある天使](後半、“目”は“三角の耳”に変わる)の存在である。手元にその時のインタビュー記事がないのだが、僕の記憶が正しければ、これはaikoが当時、車の中から見かけた、とあるビルの壁面のイラストが元になっていたと思う。そのイメージが立体・擬人化して、主人公に話しかけてくるわけである。
全体的にこの歌は、60年代に流行ったサイケデリックな感覚に満たされている。でも、どうやるとこんな歌が書けるのだろうか。僕の推測だが、それは眠りたくもないのに無理矢理寝て、たくさん浅い夢を見ることなのではなかろうか。この手法は、かつて作家の筒井康隆も、実践していたと思うのだが…。
歌詞のコラムだけど、最後にちょっとだけ、理論めいたことを
とはいえ理論に明るいわけじゃないので、ヒヤヒヤもんで書きますが、でも普通に聴いていて、彼女のメロディって、ところどころ、敢てスッキリさせず、微妙に踏ん張って耐えてる、みたいに聞こえる部分があって、それが印象に残るのだ。
平たく言うと、節回しってことなのだが、通常、節を回すと声のエネルギーは減退する。演歌のヒトの語尾のところなど聞けば分かる。しかしaikoの場合は違うのだ。
具体的には、ジャズやブルースで特徴的な“ブルーノート”と呼ばれる音階を取り入れているのだが(このあたりを詳しく知りたい方は、山下洋輔著『風雲ジャズ帖』収録の「ブルー・ノート研究」などご参考にしてください)、それが彼女の歌の世界観の、例えば一途な想いなんだけど、時折少しだけ気持ちが揺れる、みたいなところを、見事に活写するのだ。
ただ、“ブルーノート”を取り入れると、微妙に踏ん張らないといけないので、音程を保つのが難しい(なにしろ音階の、3番目と5番目と7番目の音がフラットしなきゃならないので)。彼女はシンガー・ソング・ライターだけど、そんな歌唱ができるシンガーであるからこそ、こういう楽曲を生み出せる、とも言えるわけだ。
柄にもなくお勉強しつつ書きましたが、そういう知識などなくても、いい作品だなぁと“感じられ”さえすれば、まったく問題ないわけである。理論を振り回し過ぎるのはキケンである。せっかくの作品を、専門家にしか分からない場所へと舞い戻らせてしまうので…。
覚えているのは、インタビューしやすいヒトだった、ということ。よく気がつくし、頭の回転も早い。何よりこちらの質問の意図を、真剣に汲み取ろうとしてくれる。
そのことを訊いたことがあった。すると、彼女はデビューするかしないかの時、ラジオで様々な人にインタビューする仕事をしてたのだそうだ。なかには勿体付けて、なかなか喋ってくれない人もいた。もし自分が逆の立場になったら、そういう態度はやめよう…。新人とはいえ“反対側の気持ち”を知っていたわけだ。 曲と関係ないこと書いてしまったが、20周年ということで、なんか書きたくなってしまった。ではさっそく、「花火」の話を…。
実はこの歌のなかで、実際の「花火」は上がっていない
楽しみにしていた花火大会に行けなくなって、果たされなかった気持ちが残り、でも歌のなかで、果たされなかったがゆえ表現としては助長され、そして出来上がったのがこの歌らしい。歌詞の最初のほうで、[花火は今日も上がらない]と歌っているが、この場合は比喩表現にも取れる。一途な恋を描いた歌で、その想いが“成就しない=上がらない”ということだ。しかし聴き進むと、ドッカンドッカンと、実に派手な歌でもある。
途中に出てくる言葉が[うわっと飛んでく]という表現もいい。この“うわっ”は、本人も無自覚でちょっと驚きとともに自分の身に起こったことを受け止めようとして受け止め切れていない状態に思える。そもそもこの1コーラス目の最初の部分は、未だ主人公の意識は寝起きの“シーツ”に包まれた状態というか、[もやがかかった…]以降、抽象の極みみたいな言葉も並んでいる。つまりはそう、そんな気分だったということだろう。
星座にぶらさがると、どんな気分なのだろう?
ともかくこの歌で超有名なのは、サビの部分である。この恋が成就するかといえば、パーセンテージは低い。しかしサビでは、目一杯、解放された気分になる。
古い映画で『ペイパー・ムーン』というのがある。主題歌も知られている。お月様に恋人同士が腰掛けるシーンが有名で、ただ、実際には写真撮影用の月の形をした板に座り、記念に撮るだけなのだが、このメルヘンチックなイメージは、今でも色褪せていない。この映画からインスパイアされて書かれたJ-POPもある。
この場合は腰掛けているわけで、安定してる。aikoは違う。[夏の星座にぶらさがって]、花火を[見下ろして]しまうのだ。この、誰も思いつかないスペクタクルな感覚が素晴らしい。
ぶら下がるのだ。腕の力が必要だ。時間が経ったら、上腕二頭筋が痙攣し、落っこちてしまうかもしれない。しかしこれは、もうこの感情から[戻れない]という、切羽詰まった状態ゆえの表現なのだ。腕が痙攣だなんて、せっかくの名曲なのに恐縮だけど…。でも花火って、真上からみると、どんな感じだろう。花火中継の空撮でなら見たことあるが、真上だと、絢爛な花火も、どこか謙虚に見える気がする。
花火のサイズは、途中でさり気なく、入れ替わっているのかもしれない
歌詞には他にも、主人公が花火よりさらに上空に居るからこそ可能な描写がある。[涙を落として]、[最後の残り火]に手を振る、というあたりだ。
普通に考えて、涙の水分で花火を消火しようとした、ということだろう。しかし分量は限られているので、鎮火とはいかず、[残り火]となる。でも、ここで考えてほしい。
もしかして、気付かないうちにこの花火は、大会の何寸玉から、庭先の線香花火へと、すり替わっているのではなかろうか? いつしか歌のなかで、イメージの交換が行われている。もし線香花火なら、涙でも、“ジッ”という音とともに、消すことができる。
このあたりは巧みだ。aikoは歌作りの匠なのだ。妄想バリバリのようでいて、いつしか表現を、日常のなかであり得るものへと入れ換えて、この歌を、どんどん身近なものへと引き寄せている。
主人公に助言してくる“三角の目の天使”って、誰のことなのだろう?
さて、この歌を聴いた人が?????に思うのは、[三角の目をした羽ある天使](後半、“目”は“三角の耳”に変わる)の存在である。手元にその時のインタビュー記事がないのだが、僕の記憶が正しければ、これはaikoが当時、車の中から見かけた、とあるビルの壁面のイラストが元になっていたと思う。そのイメージが立体・擬人化して、主人公に話しかけてくるわけである。
全体的にこの歌は、60年代に流行ったサイケデリックな感覚に満たされている。でも、どうやるとこんな歌が書けるのだろうか。僕の推測だが、それは眠りたくもないのに無理矢理寝て、たくさん浅い夢を見ることなのではなかろうか。この手法は、かつて作家の筒井康隆も、実践していたと思うのだが…。
歌詞のコラムだけど、最後にちょっとだけ、理論めいたことを
とはいえ理論に明るいわけじゃないので、ヒヤヒヤもんで書きますが、でも普通に聴いていて、彼女のメロディって、ところどころ、敢てスッキリさせず、微妙に踏ん張って耐えてる、みたいに聞こえる部分があって、それが印象に残るのだ。
平たく言うと、節回しってことなのだが、通常、節を回すと声のエネルギーは減退する。演歌のヒトの語尾のところなど聞けば分かる。しかしaikoの場合は違うのだ。
具体的には、ジャズやブルースで特徴的な“ブルーノート”と呼ばれる音階を取り入れているのだが(このあたりを詳しく知りたい方は、山下洋輔著『風雲ジャズ帖』収録の「ブルー・ノート研究」などご参考にしてください)、それが彼女の歌の世界観の、例えば一途な想いなんだけど、時折少しだけ気持ちが揺れる、みたいなところを、見事に活写するのだ。
ただ、“ブルーノート”を取り入れると、微妙に踏ん張らないといけないので、音程を保つのが難しい(なにしろ音階の、3番目と5番目と7番目の音がフラットしなきゃならないので)。彼女はシンガー・ソング・ライターだけど、そんな歌唱ができるシンガーであるからこそ、こういう楽曲を生み出せる、とも言えるわけだ。
柄にもなくお勉強しつつ書きましたが、そういう知識などなくても、いい作品だなぁと“感じられ”さえすれば、まったく問題ないわけである。理論を振り回し過ぎるのはキケンである。せっかくの作品を、専門家にしか分からない場所へと舞い戻らせてしまうので…。
小貫信昭の名曲!言葉の魔法 Back Number
プロフィール 小貫 信昭
(おぬきのぶあき)
音楽を紹介する職業に就いて早ウン十年。でも新たな才能は、今日も産声をあげます。そんな彼らと巡り会えれば、己の感性も更新され続けるのです。
さて6月25日。行って参りました、『サザンオールスターズ キックオフライブ 2018「ちょっとエッチなラララのおじさん」』へ。それにしても、キャパ3500ほどのNHKホールで、あのサザンが観られるなんて、思ってもみないことでした。往年の名曲に、ちょっとマニアックな曲、さらに新曲と、もう堪能しまくりでした。 夏には野外フェスに参戦だそうで、こちらも楽しみです。
音楽を紹介する職業に就いて早ウン十年。でも新たな才能は、今日も産声をあげます。そんな彼らと巡り会えれば、己の感性も更新され続けるのです。
さて6月25日。行って参りました、『サザンオールスターズ キックオフライブ 2018「ちょっとエッチなラララのおじさん」』へ。それにしても、キャパ3500ほどのNHKホールで、あのサザンが観られるなんて、思ってもみないことでした。往年の名曲に、ちょっとマニアックな曲、さらに新曲と、もう堪能しまくりでした。 夏には野外フェスに参戦だそうで、こちらも楽しみです。