CHAGE and ASKAの「SAY YES」といえば、彼らを代表する楽曲のひとつ。言わずと知れた、ドラマ『101回目のプロポーズ』の主題歌である。80年代を代表する曲だと思っている人もいるが、ヒットしたのは1991年。作詞作曲はASKAで、彼はドラマ台本を読み込んだわけではなく、スタッフから概要だけ聞き、この歌を書いたという。
ラブ・ソングである。自分の想いを受け入れて欲しいと願う、告白の歌だ。つまり曲タイトルの意味は“I want you to say yes”ということ。それと同時に、主人公にとっての“I say yes”とも受け取れる…、というのが僕の解釈だ。つまり、双方向の想いを描いている。
歌詞を眺めてみよう。[何度も言うよ]としつつ、[君は確かに 僕を愛してる]と歌っている。さてこの状況。主人公は、なぜ相手が“僕を愛してる”と判るのか? 単なる思い込みなのか?
このあたりは恋愛感情につきものの微妙な駆け引きであり、互いの心に芽生える浸透圧のなせるワザかもしれない。愛には永遠の遺失物みたいな側面もあり、在処に気付かぬ愛もある。主人公が相手に対し、それを指し示す状況こそが、この辺りの状況だろう。
ただ、ASKAはこのフレーズを、書きっぱなしにしたわけじゃなく、そんな段取りがあってこそ、曲のタイトルである最終行の“SAY YES”が、効果的に響くのだ。メロディの起伏からいうと、最後に“SAY YES”と歌われる時点が、一番だからである。それはまるで、二人のエピソードを乗せた翼が、ふわりと地面に舞い降りるかのよう。“I want you to say yes”と“I say yes”が、見事に重なる瞬間と言ってもいい。
糸井重里的とも思われる、言葉の新鮮な組み合わせ方
かつて1982年に、「おいしい生活」というコピーがあり、一世を風靡したものだった。作者はコピーライターの糸井重里。注目されたのは、ごく普通の単語を用いつつも、組み合わせ方で新鮮な意味を引き出した点だった。ASKAが糸井に影響されたのかは定かじゃないが、この「SAY YES」にも似た傾向が伺える。
例えば[愛の構え]。この前段(歌詞冒頭)で、余計なものなどないと、そう歌いかけていることから察するに、[構え]とは愛の本質、骨格部分のことだろう。ごく普通の単語が、組み合わせ方で、実に効果的に響く例だ。[恋人のフレイズ]というのも新鮮だ。こちらは前段の歌詞により、“フレイズ”というのが少しぐらいの嘘や我が儘を指していることが分かる。なので意味合いとしては、“この恋の許容範囲”ということだ。普通にやろうとするなら、少しぐらいの嘘や我が儘なら「僕は許すよ」みたいなことにもなるだろうが、それをこう表現したのが画期的だ。しかも、自分もここでいう“恋人”の一人、当人なのである。にも関わらず、ここまで大胆に客観化しているのだ。
[夢をそろえて]も、何気ないけど心に残る。“そろえて”どうするのかというと、一緒に暮らそうと誘う。そもそも“夢”は、歯ブラシやマグカップのように揃えられるものではない。なぜこの表現となったのかというと、ここでいう“夢”は、もはや現実と化し、おおよそ何グラムくらいのものかも、把握されつつあるからだろう。
さらに注目は、いざ暮らすとなって、どう暮らすか、という点だ。この歌ではなんと、そんな重要な決断なのにも関わらず、[何げなく]を提案している。しかし、よく考えてみると、いっけん肩透かしのようなこの表現こそ、地球を何周してでも探したい、珠玉の言葉なのだった。何気ない暮らしとは、日常の、ほんの些細なところにも幸せが感じられる暮らしに他ならない。
「SAY YES」の歌詞というと、[硝子ケースに並ばないように]が有名だが、僕個人はあのフレーズに関しては、特にこの歌の巧みな部分とは評価しない。いま見てきたような、ごく平凡な言葉の組み合わせこそが、この作品の秀でた部分だと思うのだ。
以前、ASKAが取材で、作詞の極意を語ってくれたことがあった。それは、連想によって言葉を跨いでいって、元の言葉とその先の言葉を繋げ、行間を作る、ということだ。その行間が、聴く人達がイマジネーションを拡げてくスペースにもなる…。
この話は、もし再びASKA作品を取り上げるなら、その時、詳しく書きたいが、「SAY YES」の歌詞にも、あてはまるのではなかろうか。例えばさきほどの[何げなく 暮らさないか]にしても、[何気なく]と[暮らさないか]の間に、さっき僕が書いたような、何気なく感じられる幸せこそが至福なのだ、みたいな連想を膨らませていき、スペースを生み出しつつ、元の言葉とその先の言葉を繋げてみる…。
ただ、こういうことはいざ実践となると、非常に難しいことだろう。ただ跨いで繋げても、支離滅裂になるだけだからである。
ラブ・ソングである。自分の想いを受け入れて欲しいと願う、告白の歌だ。つまり曲タイトルの意味は“I want you to say yes”ということ。それと同時に、主人公にとっての“I say yes”とも受け取れる…、というのが僕の解釈だ。つまり、双方向の想いを描いている。
歌詞を眺めてみよう。[何度も言うよ]としつつ、[君は確かに 僕を愛してる]と歌っている。さてこの状況。主人公は、なぜ相手が“僕を愛してる”と判るのか? 単なる思い込みなのか?
このあたりは恋愛感情につきものの微妙な駆け引きであり、互いの心に芽生える浸透圧のなせるワザかもしれない。愛には永遠の遺失物みたいな側面もあり、在処に気付かぬ愛もある。主人公が相手に対し、それを指し示す状況こそが、この辺りの状況だろう。
ただ、ASKAはこのフレーズを、書きっぱなしにしたわけじゃなく、そんな段取りがあってこそ、曲のタイトルである最終行の“SAY YES”が、効果的に響くのだ。メロディの起伏からいうと、最後に“SAY YES”と歌われる時点が、一番だからである。それはまるで、二人のエピソードを乗せた翼が、ふわりと地面に舞い降りるかのよう。“I want you to say yes”と“I say yes”が、見事に重なる瞬間と言ってもいい。
糸井重里的とも思われる、言葉の新鮮な組み合わせ方
かつて1982年に、「おいしい生活」というコピーがあり、一世を風靡したものだった。作者はコピーライターの糸井重里。注目されたのは、ごく普通の単語を用いつつも、組み合わせ方で新鮮な意味を引き出した点だった。ASKAが糸井に影響されたのかは定かじゃないが、この「SAY YES」にも似た傾向が伺える。
例えば[愛の構え]。この前段(歌詞冒頭)で、余計なものなどないと、そう歌いかけていることから察するに、[構え]とは愛の本質、骨格部分のことだろう。ごく普通の単語が、組み合わせ方で、実に効果的に響く例だ。[恋人のフレイズ]というのも新鮮だ。こちらは前段の歌詞により、“フレイズ”というのが少しぐらいの嘘や我が儘を指していることが分かる。なので意味合いとしては、“この恋の許容範囲”ということだ。普通にやろうとするなら、少しぐらいの嘘や我が儘なら「僕は許すよ」みたいなことにもなるだろうが、それをこう表現したのが画期的だ。しかも、自分もここでいう“恋人”の一人、当人なのである。にも関わらず、ここまで大胆に客観化しているのだ。
[夢をそろえて]も、何気ないけど心に残る。“そろえて”どうするのかというと、一緒に暮らそうと誘う。そもそも“夢”は、歯ブラシやマグカップのように揃えられるものではない。なぜこの表現となったのかというと、ここでいう“夢”は、もはや現実と化し、おおよそ何グラムくらいのものかも、把握されつつあるからだろう。
さらに注目は、いざ暮らすとなって、どう暮らすか、という点だ。この歌ではなんと、そんな重要な決断なのにも関わらず、[何げなく]を提案している。しかし、よく考えてみると、いっけん肩透かしのようなこの表現こそ、地球を何周してでも探したい、珠玉の言葉なのだった。何気ない暮らしとは、日常の、ほんの些細なところにも幸せが感じられる暮らしに他ならない。
「SAY YES」の歌詞というと、[硝子ケースに並ばないように]が有名だが、僕個人はあのフレーズに関しては、特にこの歌の巧みな部分とは評価しない。いま見てきたような、ごく平凡な言葉の組み合わせこそが、この作品の秀でた部分だと思うのだ。
以前、ASKAが取材で、作詞の極意を語ってくれたことがあった。それは、連想によって言葉を跨いでいって、元の言葉とその先の言葉を繋げ、行間を作る、ということだ。その行間が、聴く人達がイマジネーションを拡げてくスペースにもなる…。
この話は、もし再びASKA作品を取り上げるなら、その時、詳しく書きたいが、「SAY YES」の歌詞にも、あてはまるのではなかろうか。例えばさきほどの[何げなく 暮らさないか]にしても、[何気なく]と[暮らさないか]の間に、さっき僕が書いたような、何気なく感じられる幸せこそが至福なのだ、みたいな連想を膨らませていき、スペースを生み出しつつ、元の言葉とその先の言葉を繋げてみる…。
ただ、こういうことはいざ実践となると、非常に難しいことだろう。ただ跨いで繋げても、支離滅裂になるだけだからである。
小貫信昭の名曲!言葉の魔法 Back Number
プロフィール 小貫 信昭
(おぬきのぶあき)
音楽を紹介する職業に就いて早ウン十年。でも新たな才能は、今日も産声をあげます。そんな彼らと巡り会えれば、己の感性も更新され続けるのです。
遅ればせながら、超話題の映画『ボヘミアン・ラプソディ』を観た。クイーンというバンドは、時代に合わせて曲調も変化し、でもその都度、確かな実績を残すという、ロックの固定観念に絡め取られない、逞しい人達だった。この映画に関しては、ボーカルのフレディの生涯にスポットが当たっていて、最後は涙、涙、なのだった。僕が観た新宿の映画館も、ハンカチで目を押えている人が多かった。次はアストル・ピアソラのドキュメンタリー映画を観に行こうと思っている。
音楽を紹介する職業に就いて早ウン十年。でも新たな才能は、今日も産声をあげます。そんな彼らと巡り会えれば、己の感性も更新され続けるのです。
遅ればせながら、超話題の映画『ボヘミアン・ラプソディ』を観た。クイーンというバンドは、時代に合わせて曲調も変化し、でもその都度、確かな実績を残すという、ロックの固定観念に絡め取られない、逞しい人達だった。この映画に関しては、ボーカルのフレディの生涯にスポットが当たっていて、最後は涙、涙、なのだった。僕が観た新宿の映画館も、ハンカチで目を押えている人が多かった。次はアストル・ピアソラのドキュメンタリー映画を観に行こうと思っている。