Q)初の正統派演歌での大ヒット曲「雪國」は、どういう風にできた歌なんですか?
那須の温泉に行って大宴会やった時に、酔っ払ってギター持って即興で歌った歌がもとなんですよ。それをポータブルカセットで録音してあたったんですよね。その時の歌詞は、「好きよ〜あなた〜」じゃなくて、「だめよ〜そこは〜」って、とても人前で歌えるような歌詞じゃなかったんです(笑)。
そしたら、何日か後になって、ディレクターの長谷川さんに、「あれ、すごくいいメロディの曲だから、ちゃんとした詞を書こうよ!」って言われて、それで、NHKの「新日本紀行」って番組を見てた時に、雪けむりをあげて列車が走るのを見て、「雪国に男が女を追いかけていく…」ってイメージが出来て、歌詞が出来たんです。
でも、いざ、出すって時に、千(昌夫)さんに大反対されてね。「俺はぜったい!プレスリー」とか「俺ら東京さ行ぐだ」とか歌ってきて、「今さら正統派の演歌なんか売れるわけないだろ!」って言われてね。「売れなかったら、今ある曲の中から俺が曲を選ぶから、それを出せ!俺の言うことを聞け!」って言われましたよ。それで「売れたらどうするんですか?」って聞いたら、「売れたら裸で逆立ちして原宿歩いてやるよ」って言ってましたけど(笑)。
売れるとか売れないとかよりも、その頃は、ずっと、こういう歌を歌いたいと思っていたんですよ。それが、何も宣伝とかしていないのに、売れちゃったんですよ。そしたら、「ベストテン」だ「トップテン」だって、ものすごく忙しくなって、ほとんど当時の記憶はないですね。円形脱毛症にまでなりましたから。
Q)「酒よ」は、どういう風にできたんですか?
夜、ラーメンを食べたあとの帰り道で、郵便ポストにコートをかけてワンカップ大関を飲んでる、ひとりのオトーサンを見かけたんです。ベロベロに酔っ払ってて「帰らねぇ〜よ!」とか言ってるんですよ。それで、「もう遅いし、歩ける?大丈夫?」って声かけたんですけど、話をするうちに、お互い地方出身者だってことがわかって、「やっぱり田舎の人間はいいよなぁ〜」って話になったんです。
その時は、それで終わったんですけど、何日かたってから、「涙には幾つもの思い出がある…」の歌詞が、ふっと突然、出てきたんですよね。それで、そのオトーサンのことを思い出しながら書きあげたんです。俺にもあるし、みんなにもあることだろうなって思って書きました。何でもないところに、歌が落ちてるんですよね…、とくに演歌はね。でも最近は、街に演歌が落ちていなくなっちゃったけどね。とにかく、この曲は、メロディも一緒に出てきて、すぐ出来上がりましたね。
Q)千昌夫さんに提供されてヒットした「津軽平野」は、とても情景が浮かぶ歌ですが、ご自身の体験ですか?
実は、うちの父親は民謡歌手だったんで、出稼ぎには行ってないんです。
でも、僕が小さい頃、父親は津軽三味線の高橋竹山とかとグループを組んで、東北、北海道を旅してまわっていましたから、家にいないことが多かったですね。やっぱり、親父がいないと自由でもあり、でも、2〜3日するとさびしくなって、それで、帰ってくるときには、みやげ買ってきてくれたし、そういうのがもとになっているんでしょうね。それに、当時、出稼ぎで、駅がごったがえしてるのも見てきてるからね。
Q)「俺はぜったい!プレスリー」はどういう風にできた曲なんですか?
1972年に、山岡英二って名前でデビューしたけど、全然売れなくて、喫茶店でアルバイトしながら、いろんな人の前座で歌ってたんですよ。そんな頃、プレスリーが死んだときに、スナックで酒飲んで酔っ払って、ギター弾きながら即興で歌ってたのが、後の「俺はぜったい!プレスリー」で、それが、どっからかレコード会社の耳に入って、レコーディングするって話になったんだよね。
でも、レコーディングに行ったら、オーケストラなんかいなくて、ギター1本置いてあるだけなのよ。酒飲みながら録音して、それに、ディレクターが木魚入れたりして…、そんないい加減な感じだったんだよね(笑)。だから、てっきりデモテープだと思っていたら、知らない間にレコードになっていて、ジャケットは写真じゃなくてイラストで、しかも、名前も「山岡英二」が「吉幾三」に変わっていて(笑)。そしたら、それが大ヒット。
そんな調子だから、吉幾三って歌手は、最初は覆面歌手だったんだよね。所属のレコード会社の人も、みんな、山岡英二が吉幾三だとは知らなくて、「お前、今売れてる吉幾三って知ってるか?」とか聞かれて、面白かったですよ。でも、プレスリー聴いたことないんだよね。
Q)日本初のラップと言われている「俺ら東京さ行ぐだ」はどういう風にできた曲なんですか?
もともとはね、その前に、ニューヨークに行った先輩の板前さんが、アメリカで流行っているレコードを10枚くらい送ってきてくれていてね。その中に、今で言うラップのレコードが1枚が入ってて、最初は「この喋ってるのはなんだろう?」って思ってたんですよ。それが、自分の中のどっかに入って残ってて、後になって「テレビもねぇ〜ラジオもねぇ〜」が出てきたんでしょうね。
Q)一時、歌ネットでも、「パンティーかぶったりしていたの…」など強烈なセリフがありながら、最後には泣かされてしまう名ラブソング、「と・も・子」が大人気でしたが、あれは実話ですか?
いやいや、架空の話ですよ(笑)。あれは、最初「遅かったラブソング」ってタイトルだったんですけど、かわいそうな話だよね。なぜか人気あるんだよね。きっと、セリフも標準語じゃなくて東北弁だからいいんだよね。あの歌を出した時には、北海道と東北6県で、半年間に渡って有線放送リクエスト1位だったんですよ。
Q)山本譲二さんにご提供された「いつまでも…沖縄」も名曲ですね?
山ばっかり見て育ったせいか、沖縄が好きなんです(笑)。それに、沖縄の音楽、「レラ抜き」の沖縄音階が好きなんですよ。オレが青森出身だから沖縄の歌書いちゃいけないってことはないし、オレが思った沖縄の歌を書こうと思って書いた曲なんです。だから、もともとは、自分の曲で「いつまでもこのままで」というタイトルだったんですけど、山本(譲二)が、「コレいい歌だから歌わせてくれない?」って言ってきて、それで「いつまでも…沖縄」というタイトルで発売されたんです。
Q)昨年出されたシングル「敬愛〜夕陽の向こうに〜」は、「かあさんへ」や「あ・な・た・へ」などのような母への想いを歌った歌ですが、お母さんはどういう存在ですか?
今、85歳で、病院で寝たきりなんです。親父に苦労したんですよ。いい親父だったけど、酒飲むと酒乱の気があったんでね。若くして後妻で来たんですよ、子供が3人いる家に。親父とは20歳も若くて、それで、子供を7人くらい生んでいて、一人は死産で、6人目が僕なんです(9人兄弟の末っ子)。
母親は、落ち込んでいる時に、「くよくよしないで頑張んなさいよ!」って励ましてくれたり、「世の中はこうなんだから、甘いよ、その考え方…」って叱ってくれたりして、そういうことって、男の子供は、おふくろに言われるのが、一番こたえるんだよね。いろいろ教えてくれたし、助けてくれたことがいっぱいあります。
「敬愛〜夕陽のむこうに〜」は、おふくろの歌では、最後の歌なんです。もう書かないと思いますよ。ほとんど書いたしね。これまで、母親をテーマにした歌は、故郷を離れてからの歌ばかりだったんだけど、この「敬愛〜」に関しては、「今、現在の歌」なんです。誰でも思うことを詞にして、それで、最大の敬意を表して、「敬愛」というタイトルを付けました。この歌を、何かで耳にしてもらって、死んだおふくろさんとか、体が不自由でも一生懸命生きてるおふくろさんを敬う気持ちを思い出すきっかけになってくれればいいと思っているんですよ。
Q)新曲「秋風」が発売となりますが、どんな歌ですか?
久しぶりに「雪國」っぽい「女唄」です。さみしく、わがままな女の歌です。 |