1960年初頭のロカビリーブームの中、ニール・セダカの「恋の片道切符」の日本語カバー曲が大ヒットし、このブームを期に、坂本九とパラダイスキング、飯田久彦、藤木孝、スリーファンキーズ、克美しげるといった歌手がデビューする。
やがて、ロカビリーからポップスの時代になり、コニー・フランシスやブレンダ・リーといった女性シンガーが人気を集めると、日本でも女性ポップスシンガーが続々とデビューを果たす。特に、59年に一卵性双生児デュオ、 ザ・ピーナッツがフジTVの歌番組「ザ・ヒット・パレード」(1959-1970)のレギュラーで活躍し、番組と共に大人気になる。その後、森山加代子、弘田三枝子、青山ミチ、木の実ナナなどの新人がデビューし、中でも、中尾ミエ、園まり、伊東ゆかりは、日本テレビの「シャボン玉ホリデー」などに出演して、ナベプロ三人娘といわれ活躍した。
61年、フランク永井が「君恋し」でレコード大賞を受賞し、石原裕次郎、三船浩らと共に、低音ブームと呼ばれ、以後、歌謡曲を牽引する存在になる。同時期に、植木等の「スーダラ節」が大ヒット。
また、62年のツイストブーム、64年の東京オリンピックや新幹線開通で高度成長が本格化する前ののどかな時代。そんな中、橋幸夫が火をつけ、舟木一夫、西郷輝彦などライバルが出現して、日本独自の「青春歌謡」がジャンル的にも確立し、御三家ブームが巻き起こる。
63年のレコード大賞曲、梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」をはじめ、作詞家「永六輔」・作曲家「中村八大」のコンビがヒット曲を量産。坂本九の「上を向いて歩こう(スキヤキ)」の全米No1ヒットも彼らの作品。65年、昭和の歌姫、美空ひばりが「柔」でレコード大賞を受賞し、名実共に歌謡界のトップに君臨する。

65年にはGSを引っ張る存在のザ・スパイダースが「フリフリ」でデビュー。同年7月にジャッキー吉川とブルーコメッツ「青い瞳」(日本語盤)が発売されると、寺尾聰が在籍していたザ・サベージやザ・ワイルドワンズ等が登場して、日本のマスコミはグループサウンズと命名し、新しい音楽ジャンルが生まれる。特に、67年2月に「僕のマリー」でデビューした京都出身のザ・タイガースが十代の女性に爆発的な人気を得て、グループサウンズが大ブームを巻き起こす。同時期に映画若大将シリーズの挿入歌「君といつまでも」が大ヒットし、加山雄三ブームが巻き起こる。
66年、森進一の「女のためいき」がヒットし、青江三奈と共に「ためいき路線」ブルースものが数多く登場。そんな中、ピンキーとキラーズの「恋の季節」が大ヒット。60年代後半にはグループサウンズに変わり、黒沢明とロス・プリモス、鶴岡雅義と東京ロマンチカ、内山田洋とクールファイブなど、コーラスグループが数多く登場してムード歌謡という新しいジャンルが確立される。また、69年には、第一回ヤマハのポプコン、第一回全日本フォークジャンボリーなど、日本初の大規模野外フェスが開催されて、フォーク〜ニューミュージックのブームの兆しが現れる。60年代の主な歌手その1その2