心は災いの元

 2024年2月14日に“澤田 空海理”がメジャー2ndシングル「已己巳己」(※読み:いこみき)をリリースしました。2023年12月6日リリースの「遺書」に続く、「已己巳己」は、純粋すぎるラブソング。一途さが生み出した歪みに苦しむ心の唄。切ない恋愛を日常の景色に重ね合わせた楽曲が支持されている澤田の美しい言葉が胸に刺さると、暫くは痛みの余韻から抜け出せないのでご注意を…!
 
 さて、今日のうたコラムでは“澤田 空海理”による歌詞エッセイをお届け! 綴っていただいたのは、新曲「已己巳己」にまつわるお話。心とは何なのか。自身に「心」が芽生えたのはいつなのか。そして「心」が芽生えるとどうなるのか…。今回は音声版もございます。本人の朗読でもエッセイをお楽しみください。


澤田 空海理の朗読を聞く

「已己巳己」とは互いに似ているものを喩えた言葉です。そして、私にとっての已己巳己は「心」のように思えます。そもそも目に見えないものですが、不可視ゆえに想像の域を出ない。皆さんが頭に思い浮かべる「心」はきっと形も、その在り処も、大きく異なることはないと思います。なんとなく丸みを帯びていて、白濁していて、左胸の辺り、心臓の直上、直下、もしくは重なり合う場所に存在し、悲喜交々を感知するセンサーの役割を担うものと想像しませんか。しかし、蓋を開けてみると「心」とは千差万別。似ているだけで、同じものは一つも存在しません。已己巳己という曲は、その悍ましさに惹かれた人間の話です。
 
自身に「心」が芽生えたのはいつだったかと問われればごく最近、26歳あたりと答えると思います。生活はしていました。人と生きていました。迷惑をかけ、かけられ、人並みに泣き笑いを繰り返していました。ただ同時に、それら全てはレールから外れないようにそろりそろりと足を踏み出す行為に等しいものでした。自分がかわいくて、人に認めてもらいたくて、嫌われたくなくて、人畜無害であるように心がけていました。今思えば、それは一種の美徳ではありました。誰の思い出にも残らない、吹けば雑踏に紛れてしまう市井の人を目指していました。特別人に好かれることもなく、かといって嫌われることもな
く、それを特に不安に思うこともなく、日々は細波程度のふり幅で進んでいきました。
 
アーティストとして生きることにのめり込んだのもこの辺りです。そこで歯車が大きく狂います。他人を蔑ろにするようになりました。とりたてて攻撃的になったわけではないですが、自分の人生に他人が入る隙間が恐ろしく狭くなったようでした。自己の確立の瞬間であり、心の萌芽であり、最後の防壁が崩れた音がしました。必要以上に膨れ上がった自責の念と、それに反比例して肥大していく自尊心との闘いがそこには待っていました。
 
「已己巳己」の映像には、ぬいぐるみのイコとそれを拾いあげるミキが登場します。ミキにとって愛玩の対象であったイコ、一人と一つは同じ屋根の下で暮らします。イコはミキの愛を受けてすくすくと育ちます。その中で芽生えていくものがあります。ミキが嬉しそうにしていると嬉しくて、ミキが悲しそうにしていると悲しいのです。抱き締めてしまいたくなるのです。自身の大きな体躯がミキにとってどれだけの恐怖を与えるかを知らず、見よう見まねで伸ばした腕は力加減など判りません。それでも「心」がそうしたいと願ってしまったのです。こんなものさえ無ければ、気づかなければ、きっとイコとミキは今でも傍目にも美しく映る一人とひとつだったのかもしれません。そして、イコは理解します。心など要らなかったのだと。

<澤田 空海理>



◆紹介曲「已己巳己
作詞:澤田 空海理
作曲:澤田 空海理