“あい”ちゃんと、この愚かな私について その一

 2025年12月10日に“いきものがかり”がニューシングル「生きて、燦々」をリリースしました。タイトル曲は、TVアニメ『キングダム』第6シリーズのオープニングテーマです。作詞作曲を水野良樹、編曲を島田昌典が担当。視聴者から“アニメの世界観にぴったり”との声が多数寄せられております。
 
 さて、今日のうたではそんな“いきものがかり”の水野良樹による歌詞エッセイを3週連続でお届け。今回は第1弾です。自身に何度も投げかけられてきた、「AIに歌詞は書けるのか」という問いに対する考察。そして、AIが生成した歌詞に違和感を覚える理由についての仮説と論点を綴っていただきました。ぜひ最後までお楽しみください。



歌ネットのコラムの締切、もうすぐだったな。そろそろ書かなきゃな……とテキスト入力ソフトを立ち上げたら、画面上に吹き出しコマンドが表示された。このソフト、いつの間にかアップデートされていたらしい。コマンドにはこのようなことが書かれてあった。
 
「お疲れ様です。どんな下書きがお望みですか?営業報告書?お子様の算数の問題集?プレゼン用資料?すぐにご用意いたします」
 
おう。君か。やっぱり、君だったのか。最近よく会うね。
 
"あい"ちゃんである。
 
同い年の盟友、大塚愛のことではない。そもそも大塚さんのことを「愛ちゃん」とは呼べない。一応、向こうが先輩だし。大塚さんはこちらのことを「水野くん」と呼んでくれるが、そこを踏み込んで「愛ちゃん」とは呼べない。かといって「愛さん」だと後輩感がいささか過剰だ。以前、調子の良い後輩感を出そうと思ってうっかり「姉さん」と呼んでみたら「いや、年下ぶるのはずるいわ。同級生じゃん」と怒られた。正論である。諸般のもろもろを鑑みて、落ち着くところが「大塚さん」である。目の前で会話をするときの呼び方は「あなたねぇ」である。「君」ではない。なんかピリッとする。「あなた」ではちょっと距離がある気がするので、そこは少し茶化して「あなたねぇ」である。自分は濃いめの神奈川県出身者だが、江戸っ子っぽいイントネーションで言うのがコツだ。発音的には「あぁーたねぇ」でもよい。さぁ、みなさんご一緒に「あなたねぇ」。ちなみに大塚さんは黒胡麻せんべいが好きである。レコーディングスタジオのケータリングにあった黒胡麻せんべいを彼女はいたく気に入っておられた。大塚さんが喜ぶから、今後は黒胡麻せんべいをちょっとだけ多く買ってきてほしいと、スタッフさんにこっそり頼んだくらいだ。スタジオで大塚さんの機嫌が良いと嬉しい。
 
なんの話だ。また、無駄な話を。遠回りをしてしまった。人間とはこうやって、本題から外れた、どこにも辿り着かない無駄話を長々としてしまうものだ。いや、主語がデカすぎた。あくまで愚かな自分ひとりのことに過ぎないのに、ついつい「人間とは」とか「我々ミュージシャンとは」とか、主語をでかくして語り、発言の主体をあいまいにさせ、自分を守ろうとしてしまう。これこそ実に典型的な、あまりにも愚かな人間……ああ、じゃなかった、わたし。ぼく。水野。水野良樹。いきものがかりの地味な方。顔はよく思い出せないけれど、たぶんあいつ!とあなたが今思い浮かべている人。のいつもの有様である。
 
そんな愚かな私の前に近頃、たびたび姿を表す存在がある。
 
「AI」。つまり、"あい"ちゃんである。
 
あなたのところにもよく顔を出しているはずだ。なんせ大人気だから。引く手あまただから。冒頭のテキストソフトのように、知らぬ間にあらゆるところに実装されていて、いつでもどこでもひょっこり現れる。ドン引きするくらい優秀だし。私なんか、もっと会いたいなって思っちゃって、しっかり課金している。課金ユーザーだ。どこの"あい"ちゃんとは言わないけれど(いろいろ種類があるだろ)のめりこんでいる。歌詞で稼いだ印税をおしげもなく"あい"ちゃんにつかっている。脳に汗をかき、あんなに苦労して文字を書いて稼いだお金を、数秒でさくっと数千文字の文章を吐き出せてしまう"あい"ちゃんに毎月せっせと貢いでいるなんて、やれやれ、なんてディストピアだ。
 
ところで、このコラム、そろそろ読者に愛想をつかれてしまう気がする。
本題に入ろう。さすがにちゃんと話そう。
 
歌詞を題材とした音楽メディア「歌ネット」に掲示するコラムで「AI」という単語を出したからには、もう皆さんも薄々、「ああ、こいつ、あのテーマで喋る気だな。」とお気づきだと思う。無駄話を続けて、字数を稼いでいることにもお気づきだろう。そこはあなたも人間なんだから、察してくれ。ありがとう。さぁ、はじめよう。
 
「AIに歌詞は書けるのか」
 
この1年くらいのうちに、もう何度、この話題を投げかけられただろう。取材のようなオープンな場所でも、友人との雑談のようなプライベートの場所でも、多少の言い回しの違いこそあれ、様々なひとから、何度となくこの話題を切り出された。ポイントカードがあったら、もう2、3枚埋まるくらいの回数聞かれたと思う。ポイントカードが1枚埋まったら「1回だけこっそりAIに歌詞を書いてもらえる券」とかもらえないだろうか。できれば締め切りが差し迫っているときとかに。年度末とかに。そこんところ、いい感じに頼むよ、"あい"ちゃん。まぁ、なにがしかの"ミュージシャンとしての信用"的なものを、ごっそりと失ってしまいそうだが、それは神妙な顔と雰囲気でどうにかするとして。
 
ただ、この問い、どうも最近、無意味化している感はある。読者の皆さんからも「え?まだ、そんなこと言ってるんですか?あなた、まだ、そこにいるんですか?」と、スマホの画面に冷たい眼差しを向けられている気がする。どうか、あなたのその綺麗な指先で画面をスワイプしないでほしい。あと、もうちょっとだけ読んでほしい。それなりに長いけど。
 
というのも、文章だけでなく、コンピュータープログラム、画像、動画、音楽など、生成AI技術の加速度的な進歩によってその成果物のクオリティが「うわ、やば。こわ。ひくわー」とこちらの言語能力を削ぎとるレベル……なんてとうに越え、「人間がつくったものか、生成AIがつくったものか、はたまた両者の掛け合わせか、わからない」というレベル……も難なく越えそうで、「シンギュラリティの全方面的な実現」は想定よりだいぶ早まりそうですよという話も聞こえてくるレベル……もそろそろ過去のことで、さらに一歩越えて「やがては人類滅亡するらしいっすよ」というドラマティックな話をユーモアの範疇でしゃべっていられなくなりそうですねというところまできた今、歌詞という(音楽との共生という制限的特徴はあれど)言語だけで表出される、あまりにもミニマムな表現様式が、「書ける」「書けない」のレベルで考えられるわけないでしょう、そりゃ書けるっしょと、当然化されるのは自然な流れであり、ゆえに「AIに歌詞は書けるのか」という問い自体が瓦解しているのは、紛れもない現実だ。
 
ああ、なんてまわりくどい、長い文章だろう。
わざと読みにくくしているとしか思えない(半分、その通りである)。
やっぱりこのコラムもAIに書いてもらったほうがよかったんじゃないか。そう自省しながらも、一方でむくむくと湧き立ってくる疑問は、それでもなお、AIでの歌詞執筆にまつわる話題が、それなりに好奇心をそそるものとして残り続けているのはなぜだろう、というところだ。
 
たしかに「AIに歌詞は書けるのか」という問いそのものが"問うているところ"の性質が、いつの間にか変化していることは明白だ。この問いを話題にするとき、字面通りの「書ける」「書けない」の成否を問うているひとは、もうさすがに少ない。我々がこの問いにおいて興味の重心を置くのは、単純な実行の成否ではもはやなく、やはり「良い(と人間が思える)」歌詞を書けるのかという、クオリティの進化にまつわる部分であろう。
 
だとしてもだ。
本来であるならば、その「クオリティについてのうんぬんかんぬん」も、遥か昔に廃れていてもおかしくない話題のはずだ。前述したように、画像や動画といったような、歌詞と比較すれば遥かに変数の多い、複雑な情報構成をもつ創作物が「人間オワタ」と揶揄されるレベルで表出され、圧倒的な物量とスピードで氾濫する現状を見れば、たかだか数百文字で、テキストという単純な言語情報で、データ量としては極小であるはずの創作物のクオリティが、なぜ議論としてまだ生きているのか不思議だ。それでも、なぜか我々はAIが書いた歌詞を見て、少しだけ思ってしまうのだ。
 
「あれ、なんか、ちがう」と。
 
そう思ってしまうのは、AIに創作を侵食されることへの忌避感から生まれるバイアスなのか、はたまた「極小な違いも敏感に感じとる俺、いけてるっしょ」という、分析そのものを自己表現化してしまいがちな人間らしさの発露なのか、そうやって意地悪に考えればいくらでも鑑賞における非論理性や認知の歪み、偏りを指摘できそうだが、愚かな人間のひとりである私は、人間に対してえこひいきしてしまう気持ちがたっぷりあるので、どうしたって「やっぱさ、いろいろ俺も考えたんだけどさ、なんかちがうって感じするよね?」と、飲み会で知り合いをみつけたときのようなハイテンションで、人間たちに加勢してしまうのだ。
 
なぜAIにとっては、シンプルで容易な課題であるはずの歌詞の生成に、まだ我々は違和感を抱くのか。「なんか、ちがう」をぬぐいきれないのか。
 
問いとは、それそのものが、答えとなるときもある。
「シンプルだから」容易なのではなく、「シンプルだから」困難なのではないだろうか。
 
以下、次のような仮説と論点で語っていきたい。
真面目な顔をして、脳に汗をかきながら文字を打っていきたい。
 
・歌詞というシンプルな構造物だからこそ、人間と生成AIとの微妙な差異を、情報の複雑さのなかに隠蔽することができない。
 
・画像や動画は、その創作物のなかに鑑賞者に与える情報が膨大にある。一方で歌詞は、歌詞そのものに表記されている情報はきわめて少なく、鑑賞行為は、鑑賞者自身がもつ知識、想像力を能動的に駆動させることでその大部分が行われる。歌詞においては、その鑑賞行為の実質は鑑賞者たる人間の脳内での負荷が比較的大きく、そのように鑑賞者の未知で不明瞭なアセットを駆動させなくてはならないようなエンタメは、まだAIは不得手なのではないか。
 
・人間とは、計算の結果で成立している存在ではなく、実質的には環境そのものと接続している存在だ。自己同一性を保つために、自己とそれ以外(他者、世界)を分離するような考え方が人間にはインストールされているようだが、それは完全ではなく、物理的には環境そのものといってもいいはずではないか。そのような人間と、膨大な計算(それがたとえ人間の理解を大幅に超えるような規模と速度であったとしても)の結果である生成AIとは、似姿ではあるにせよ、同一にはなりえないのではないか。母数は環境(宇宙そのもの)にあり、計算はどうしてもその枠内に入るものではないのか。そして、そのアウトプットの差異は、前述した通りに、シンプルなものほど出やすい(気がする)
 
・人間は、人間の認識が及ぶ範囲ではおもに時間の経過と伴走するかたちで、生から死へと、おのれの意志と関係なく自走してしまう存在だ。我々の「生きる」という現象は、どこからきて、どこへ向かうのか。それを人間がコントロールすることは現状ではできないし、それを理解しようという試みは人類史のなかで延々と繰り返されてきたのだろうが、結論にはもちろん至っていないだろう。この"自走"あるいは、延々と命として現れつづける状態と、出発点において入力を前提とするAIの自走に"見える"状態とは、やはり差異があるのではないか。そして、それこそが歌詞という、鑑賞者としての人間そのもの(あるいは環境そのものと言い換えてもいいかもしれない)を主体として駆動しないと成立しないミニマムな創造物のなかでは、逆説的に巨大化するのではないか。
 
 
まるでAIが書いたような"それっぽい文章"だが、残念ながら人間のひとりである愚かな私が書いた"それっぽい文章"である。さぁ、これから、これらについて、膨大な時間をつかって考え、AIだったら数秒でアウトプットする程度の字数を費やして書いていきたいと思うが、さすがにここまでで長すぎるし、正直、お腹が減っているので、また続きは次回とさせていただきたい。
 
こちらのコラム、全3回で書かせていただけるらしく、私にはあと2回のチャンスが与えられている。食欲を満たし、ぐっすりと睡眠をして、体調万全で奮闘して書きたい。だが、締め切りに間に合わないと思ったら、みんな大好き、大人気の"あい"ちゃんに声をかける誘惑に、負ける可能性はゼロとも言えない。そのときは私の文章を一読されたのち、「あ、こいつ、やりやがったな」と思って笑い飛ばしていただければ幸いである。
 
今日は雨が降っている。いい歌詞が書けそうな日だ。それでは、また。ごきげんよう。
 
<水野良樹(いきものがかり・HIROBA)>



◆ニューシングル「生きて、燦々」
2025年12月10日発売
 
<収録曲>
生きて、燦々
生きて、燦々 -みなさん、こんにつあー!! 六万の声ver.-
生きて、燦々 -instrumental-

◆「生きて、燦々
作詞:水野良樹
作曲:水野良樹