“あい”ちゃんと、この愚かな私について その三

 2025年12月10日に“いきものがかり”がニューシングル「生きて、燦々」をリリースしました。タイトル曲は、TVアニメ『キングダム』第6シリーズのオープニングテーマです。作詞作曲水野良樹、編曲を島田昌典氏が担当。視聴者から“アニメの世界観にぴったり”との声が多数寄せられております。
 
 さて、今日のうたではそんな“いきものがかり”の水野良樹による歌詞エッセイを3週連続でお届け。今回が最終回です。少年時代、国語の授業で自身に余韻を残した、三好達治の「雪」という作品。この詩ならではの“表現”とは。そしてそれはAIが創造できるものなのか…。ぜひ、最後までお楽しみください。



太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。
 
三好達治の「雪」である。
 
小学生のときだったろうか。国語の授業のなかでこの詩が出てきて感銘を受けた。もちろん、当時子どもだった私に「感銘を受ける」なる状態がどういうものか、十分に理解できていたはずもなく(おそらく大人になった今も雰囲気で言ってしまっている。つまり、上記も雰囲気で書いた)、実際のところは「おぉ……わぁ……はぁ……へぇ……」という感じだったと思う。
 
同じ授業のなかで、草野心平の「冬眠」も黒板の上に並べられていたかと思う。今、思い返してみれば、生徒たちに詩における自由度を伝えるような授業だったのかもしれない。たしかに「冬眠」には子どもにもわかりやすい、読者を「ハッ」とさせるような驚きがあった。丸い点だけが黒板に書かれ、「これが世界で一番短い詩です」と教師がいささかドヤ顔(これも記憶から引き出した推測だ)で言い放ったときは、自分だけではなく、一緒に机を並べていた友人たちも「ええ!」と声に出してびっくりしていた。実に小学生らしい、おもちゃ箱をひっくり返したようなざわめきが教室内にあふれていた。正直、おもちゃ箱をひっくり返した経験はあまりないのだけれど、笑い声も含んだ楽しげな反応がそこには生まれていた。
 
この「冬眠」と出会ったときの驚きは、のちに大人になってジョン・ケージの「4分33秒」の存在を知ったときにも、同様のものを感じた。「そう、きたか」とでもいうような、自分たちの固定概念の外側から不意にボールを投げられて、たしかにそう考えることもできるよな!と、認識がリフレッシュされるような爽快感があった。もちろん専門家が深く読み解けば、「冬眠」にも「4分33秒」にも、そんな表面状の「アハ体験」以上の意味解釈ができるのだろうし、安直な「おもしれー!」にはとどまらない豊かな批評が、それぞれの作品を前にして語られうるのだとは思うけれど、さすがに年端のいかない小学生たちは、目の前のポチっとした黒い点を「詩だ」と言われてしまうと、突如として現れた「おもしれー!」のまぶしい輝きに夢中になってしまい、次の瞬間には黒板を指差して「それはズルいと思います!詩はもっと何文字か、使うべきだと思います!」などと、まるでじゃんけんで後出しされたときのように唇をとんがらせて、ふざけて騒いでしまっていた。教師はそれをなだめながら、詩の自由さや、この作品の深みを真剣になってそこで説くわけだが、子どもたちはもう面白がってしまっていて、困り顔の教師を「ズルい!ズルい!」とからかって、あとはわちゃわちゃと楽しく時間が過ぎていった。
 
だが私は、友達連中と一緒になってそのからかいに参加しながらも、その前に紹介された三好達治の「雪」の余韻のようなものを、頭のなかで消すことができなかった。「おぉ……わぁ……はぁ……へぇ……」はまだ続いていた。なんか寒いなぁ。なんか暗いなぁ。なんか静かだなぁ。などと感じながら。おっかしいな、なんか、不思議だなぁ。
 
太郎や次郎が眠る家屋の屋根が、映像として思い浮かぶ、とか。
しんしんと雪が降り積もる静かな村の寒さを肌に感じるようだ、とか。
 
大人になって、当時の記憶を再生して、それ相応に言語化することはできるのだろうが、この言語化にあまり意味はないし、極端な物言いかもしれないが、この場合、今さらの安直な言語化はしないほうがいい。「大人の俺、喋るな」と言いたくなる。「まじでいらんこと言うな、お前。黙ってろ」と言いたくなる。「そもそも、このコラム、他のひとの記事を見たら、みんな数百文字くらいじゃないか! 5000文字超えってなんだよお前! いくら歌ネットさんが優しいからって調子にのるな!」と言いたくなる。
 
あのときの、まだ純朴だった、このコラムのようなこざかしい能書を垂れることもなく、「こんなふうに書いたら、みんなに賢いと思ってもらえるかな?」などという恥ずかしい自意識もない、ただただ目の前の作品と純粋に、素直に向き合うことのできていた水野少年が、詩を前に感じていたことの情報の総量は、おそらく言語化できることの数十倍、数百倍、いや、それ以上であると思う。そもそもそれらは彼の頭のなかで、言語に変換された“モノ”で認識されたことではなく(それを引き起こしたトリガーはたしかに詩という言語によってなされた作品で、“モノ”であったが)、体験という“コト”で認識されたはずだ。両者にはとてつもなく大きな差がある。
 
そして非常に重要なのは、あのときの水野少年の頭のなかで、生き生きと“体験”として駆動された詩の感動そのものが、まさしく「雪」という作品の“表現”そのものであると、ほぼ言い換えて間違い無いのではないかということだ。
 
どういうことか。
「雪」は、あの二行だけで“表現”を完成していなかった。“表現”が立ち上がるのは「雪」の二行が書かれた原稿用紙の上ではなく、それを読み、そして自分という“生きた意識”によって、そのひとにしか再現できない鑑賞体験へと没入していく、読み手の頭のなかだ。
 
あくまでわかりやすくするために、あえて極端な、大変に失礼な書き振りで書く。
あの作品は、あえて不完全な状態で、提示されている。書かれていてもよいはずのものを、ほとんど書いていない。そぎ落とし、そぎ落とし、ほとんどのことを何も書かないで、あの二行だけが書かれている。あの二行のなかで“表現”が終わらない。“表現”のほとんどが、あの二行のなかに収まりきっていない。むしろ書かれたものが、むやみに“表現”をおびやかさないことを課している。生き生きと手を伸ばし、足を伸ばし、躍動するはずの“表現”をじゃましないように、抑制されている。書けば書くほど“表現”にべたべたと手をつけてしまい、その豊かな可能性を汚してしまう怖さを、あの二行は知っている。だから何も足さない。極限まで、言わない。書かない。
 
すごい。やはり達人は無駄に多くを語らないのだ。
考えてもみてほしい。このコラムだって、達人が書けば、300文字くらいで事足りたのかもしれない。5000字もいらない。つまらない自虐もいらない。脱線もしない。無駄もない。それでいて相手が想像を膨らませるために必要なものは、品よく、シンプルに置かれている。そんなふうに達人だったら書けるのかもしれない。しかし、私は達人ではない。もうバレていると思うが、達人風の顔をすることは得意でも、私は純正の達人ではない。なので、喋ってしまう。喋れば喋るほど、多くのものを失っていく。たとえば、文章の読みやすさとか。ごめんなさい。もう少し付き合ってほしい。この長い文章に。
 
作品が、作品内で“表現”を完結するのではなく、そのほとんど(ほぼすべて)を読み手(鑑賞者)の想像力、あるいは肉体性、あるいは生きているそのひとのナラティブそのもの、を駆動させることで、(事実上果てのない)表現の生成を実現していること。さらに恐ろしいことに、幼い水野少年がそうであったように、鑑賞者の感動なり、感銘なり、そういった情動のうごめきが、言語表現による作品であるにもかかわらず、はなから言語を基盤としていないこと。
 
子どもだった私は、言葉で感動を脳内につくりだしていたのではない。
ワイン好きのひとたちは、ワインの味や風合い、香りなどを、さまざまな比喩もふんだんに用いて、美しく言葉にすることがひとつの嗜みであるそうだが、そんなことを小学生はできないし、しない。(大人になった私もできない。いまだに、いい感じの感想が言えない。他のひとのライブの楽屋挨拶とかで、いい感じのことが言えたためしがない)
 
小学生の彼は、そんなに豊かで巧みな語彙は持ち合わせていなかった。幼い彼は言語の多くをまだ知らず、それはすなわち、言語にまだ依存していなかったとも言える。世界認識を言語に縛られきれていない状態だった。それでも彼は感動した。「おぉ……わぁ……はぁ……へぇ……」と思わず声を漏らすような、“なにか”を体験として実感した。その構造は、おそらく幼少期よりは言語に長けているはずの成人した人間が、あの詩を読んでも、そう変わらないはずだ。つまりあの作品の行き着く果ては、言語ではなかったのだ。
 
あの作品は、言葉ではじまりながら、言葉で終わらない。
 
さぁ、熱がこもりすぎて、どうも文章が早口になってきた気がする。百歩譲って早口はいいとしても、文章の滑舌が良くない。落ち着こう。コーヒーを飲もう。今日、もう8杯目だけれど。カフェインとりすぎだろうけれど。だから、興奮しているんじゃないか。デカフェのほうがいいんじゃないか。ところで「デカフェ」なのか「ディカフェ」なのか。そろそろどっちの言い方が正しいのか、こっそり教えてくれ。レジで店員さんに言うとき、ちょっと緊張するんだ。何の話だ。話を戻そう。
 
いや、水野さん。
あなた、ずいぶんと熱っぽく語っていらっしゃいますけれどね、そもそもさぁ、詩ってそういうもんなんじゃないの? 歌詞ってそういうものなんじゃないの? 「考えるな、感じろ」的なものなんじゃないの? その「雪」っていう詩がわかりやすい例なのかもしれないけれどさ。だいたい詩って、みんな、そういうもんでしょ。「言葉ではじまりながら、言葉で終わらない」なんて、ずいぶんドヤ顔で言い切って、「俺、言ってやったぜ」みたいな雰囲気出してたけれどさ、それ、よくよく考えたら当たり前のことじゃない? あんた、当たり前のことしか言ってないじゃん。
 
その通りである。
自分で考えたツッコミだが、ぐうの音も出ない。おっしゃるとおりである。自分で考えたツッコミだけれど、反論する気にもなれない。反論するとさらに原稿が長くなってしまいそうなので、そういう意味でも反論したくない。お茶を濁したい。コーヒーを飲んでいるけれど、ごまかしたい。ふざけすぎて、もうなんだかよくわからないが、続けさせてくれ。もう少しで終わるから。
 
いや、だからこそ、書けるのか?と聞きたいのだ。
誰に?
 
“あい”ちゃんにだ。今回も、原稿の終盤になってやっと、ラスボスのごとく登場してきてくれた。“あい”ちゃん、つまりAIである。もはやこの呼称にも愛おしさを感じる。
 
「冬眠」や「4分33秒」も、「雪」と同様に鑑賞者側に表現という行為の多くを傾けていることに変わりはない。そういう意味で、3作品の鑑賞の一連は、構造として近いものを持っていると言えるはずだが、一方で、AIに書けるかという視点でいうと微妙に差異が出てくる。「冬眠」や「4分33秒」については、その“驚き”の部分を再現するというだけなら、十分に書けるのではないかと思う。それは技法の転換であったり、フレームの切り替えであったり、俯瞰の連続による新しい視点の提示だから、それらはこれまでに蓄積された情報をもとに再構成をすれば、AIにも可能だろうし、むしろ人間では気がつけなかったところまで提示してくれる可能性も十分にあるだろう。表面的な“驚き”については、「冬眠」や「4分33秒」と同様の“驚き”をもたらす作品を、AIが提示することは、いくらでもあるはずだ。
 
だが、「雪」はどうだろうか。ここに、壁がある気がする。「雪」は「人間が読むということが、どういうことなのかを、体験として理解している」人間が、同じく人間として生きている存在(トートロジーになってしまうが、つまり人間である)が読むことを想定している作品だ。AIは「人間が読むということが、どういうことなのかを、情報としては認識できるが、体験としては理解できない」存在なのではないか。
 
その思考過程が、人間にとって認知の範疇を越えるほどに複雑で、超速度的で、仮に多次元的であったとしても、プログラムという、論理という出発点が重力として残り続ける言語様式からスタートしたAIが、非言語の“体験”に転換されていくような創作物を、人間ほどの不合理性や偏りや、あるいは流動性をもって、生成することができるのか? しかも“体験”の主体たる人間は、一瞬も停止することなく(接点や、同定できる瞬間がなく)、常に動的な存在で、事実上、世界そのものと接続している生命体だ。ようはAIは、“生きる”という現象の壁を、まだやぶれないのではないか。その壁に限りなく近づくことはあっても、触れられないのではないか。その壁に触れて、やぶって、はじめて、AIは「詩を書けるか、書けないか」の問いに、やっと辿り着けるのではないか。
 
「長崎は今日も雨だった」
「ああ 津軽海峡・冬景色」
「よこはま たそがれ ホテルの小部屋」
「雨上がりの空を見ていた」
 
疲れた。なんだかとっても疲れたんだ。
生きてるって感じがする。気のせいだと思う。すこしラストスパートが暴走したように思う。
 
“生きる”という現象の不可思議さと、とらえようのなさが、むしろ愛おしくなる、今日この頃である。われわれは“生きる”という現象に接続されているということをもってして、まだAIとの差異を、わずかばかりは保てるのではないか。そのわずかばかりが、永遠に近いようなものでも、ある気がするが。
 
晴れた。冬の風が心地良い日だ。
厚手のコートを羽織り、そろそろ喫茶店を出ようと思う。となりの席に座る男性の貧乏ゆすりが気になった。自分も同じかもしれない。気をつけなければ。みんな忙しく生活している。今年ももうすぐ終わる。それでは、良いお年を。
 
<水野良樹(いきものがかり・HIROBA)>


◆ニューシングル「生きて、燦々」
2025年12月10日発売
 
<収録曲>
生きて、燦々
生きて、燦々 -みなさん、こんにつあー!! 六万の声ver.-
生きて、燦々 -instrumental-

◆「生きて、燦々
作詞:水野良樹
作曲:水野良樹